私は根っからの営業マンじゃない。
頭のてっぺんから爪先まで営業マン
って訳でもない。でも曲がりなりにも
2人の子を育て今日まで生きて
来られたのは、営業力を身につけ
られたお陰だと思ってます。
俳優からプロデューサーに転向して
2年間は、営業を教えて下さる方が
いない家族的な劇団でしたが、自分
なりに営業し、ある程度の実績を
あげました。すると、そんな私に目を
つけ、誘って下さる方が現れました。
私は32歳、長男が2歳の年でした。
他社の社長さんが当時新宿で一番の
ムーランルージュってキャバレーに
連れてって下さり、社長さんはNo,1
ホステスを、私にも綺麗なお姉様を
つけて下さり、優雅に飲んでました。
「君、今、いくらもらってるんだ?」
いきなり直球が飛んで来ました。
「15もらってます。」
「ボーナスは?」
「ないです。」
「家族養うなら30はいるだろう?
ボーナスもほしいだろ?」
「そうですね。」
しばらく飲んでから
「君、英語できるか?」と聞かれ
「中学校程度なら…。」と答え、
その日は別れました。私はその晩
そのことを妻に伝え、半年後にその
劇団へ移籍することを即断しました。
その社長さんは霞ヶ関に強い方で、
国際交流を促進すれば政府発注の
仕事が取れるという目算があり、
通訳の出来るプロデューサーを秘書
代わりに連れて歩きたかった訳です。
当時の私には、そこまで察することは
出来ませんでしたが、とりあえず英語
が出来た方がいいのか…、と思い
手土産として3ヵ月間、自費で
英語を学んでから入社しました。
ネイティブスピーカーに1レッスン
7000円で家庭教師に来てもらった
ので、実践的な勉強が出来ました。
事前に自己投資して英語を学んで
おいたことを社長は高く評価して
下さり、以後「武内を見習え!」が
口癖になりました。しかしその一方
私と二人きりになると
「武内、人から認められるにはな、
人の倍の数字を見せつけなきゃ
ダメだ。うちで3年連続トップ
はってる男は、毎年2千万売り
上げてる。だからお前は4千やれ。」
と言われました。私は、それが私の
給料分の働きなんだと解釈し、
1年目から4千万売り上げました。
すると先輩の営業マンは1人、
また1人と辞めて行き、2年後には
私がリーダーになりました。
私は、30本も本塁打を打ったのに
「王貞治のバッティングが出来なく
なった。」と言って引退した王さんを
尊敬していましたから、社長の
その動機づけは効果絶大でした。
『ダブルスコア』が営業マンとしての
私の第一の哲学となり、何をするに
しても「人の2倍出来て当たり前。」
と自然に思うようになりました。
To be continued
武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・水・金の朝に更新。
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at-home-takeuchi@aqua.ocn.ne.jp
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