2016年12月31日土曜日

生きる価値

今年最後の1日を
何人かの利用者さんと一緒に過ごして
帰ってきました。


 
帰り道
チャリをこぎながら
生きる価値について考えました。


 
若い頃は
そんなこと全然考えなかったけど、
この歳になると
考えちゃうんですかね。


 
限りある命を生きている私にとって
一瞬一瞬が宝物。
だから、
縁あって出逢った人々とは
仲良く、楽しく過ごしたい。
心からそう思います。


 
「目の前にいる人と共感し微笑み合う」

 
今の私にとって
それ以上の価値を
人生に見出すことができるでしょうか。


 
ちょっと、
詩でも描いてみたくなりました。




 
「君と僕」

 
君にとって
怪我さえなければ
病気さえなければ
出逢うことのなかった
僕が笑った


 
ハハハハハ…

 
僕にとって
芝居だけやって
生きていければ
出逢うことのなかった
君が笑った


 
ハハハハハ…

 
君と僕にとって
この世に
生まれてこなければ
出逢うことのなかった
互いが笑った


 
ハハハハハ…
ハハハハハ…

 
君と僕にとって
この世から
去ってしまえば
出逢うことのなくなる
互いが笑った


 
ハハハハハ…
ハハハハハ…

 
また笑おう





今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
 

名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新

2016年12月25日日曜日

やり甲斐と責任

私は11月から、
サービス提供責任者見習いにさせて頂き、
あっという間に2ヵ月程が経ちました。

立場が変わったことで
利用者さんだけでなく、そのご家族とも
お話しをする機会が格段に増えました。

障がいを持つお子さん、
そのお母様も障がいを持っておられる、
そのようなご家族が
私達に寄せて下さる期待は
並々ならぬものがあるようで、

「武内さん、頼りにしてます…。」
とおっしゃって涙ぐまれると
「解りました。大丈夫ですよ…。」
と答える私も、つい涙ぐんでしまいます。

私達は職業で支援をしていますので、
情に流されてばかりでは
仕事にならないのかも知れませんが、
私も人間です。
「精一杯、力になってさしあげたい!」
って思いましたよ。

そして、
これまでとは異なる責任感を
ご家族に対して感じるようになりました。

この仕事って、ホント
やり甲斐がありますね!

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2016年12月18日日曜日

誇り

先日、ある方がFacebookで
こんなことを呟きました。

「僕は障害者であることを
 誇りに思っております。
 なぜなら健常者にはわからない
 苦しみや悲しみの一端を
 僕も経験しているからです…。
 人に理解されない経験を
 健常者の人たちよりもたくさん経験し、
 強い立場のみならず弱い立場も
 理解することもできる…。
 ですから僕は障害者であることを
 誇りに感じております。」

他人に優しくなれる人って
自分が苦しみや悲しみ
色々経験した人なんでしょうね。

私は彼の呟きを聞いて、
自分がこれまで「誇り」という言葉に
あまりに無頓着であったことに
気づかされました。

人様から信頼される自分であるために
何を成すべきかという尺度だけは
自分なりに持っていたような気がしていて
ひょっとしたら、その尺度が
私にとっての誇りだったのかも知れない、
そんな気もします。

国家・故郷・家族・知人といった
自分以外のものへの誇りというのも、
滅多に意識できませんでした。
そういうものは、自分が生きて行くために
必要だなものだと感じなかったからです。

でも最近、私は変わりました。
職場で黙々と責務を果たしている
仲間の姿を見るにつけ、
心からの敬意と誇りを
感じずにはいられないのです。

私は
私を変えてくれた仲間に感謝し、
これからは
この誇りを胸に生きて行こうと思います。

Because, that’s my life !

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2016年12月11日日曜日

休まなくていい自分

私は以前、
記憶の塗り替え(セルフ・コントロール)
について、何度か書いてきました。

「甘いものを食べなきゃ、やってらんない。」
って思ってる自分から
「甘いものを食べなくても、やっていける。」
って思ってる自分への記憶の塗り替え。
「煙草を吸わなくちゃいられない。」
って思ってる自分から
「煙草を吸わなくてもいられる。」
って思ってる自分への記憶の塗替え。

で、いま私がやってるのは
「休みを取らなきゃ、やってらんねえ!」
って思ってる自分から
「休みを取らなくても、別に全然かまわない。
逆に休みって何?」って思ってる自分への
記憶の塗替えです。

基本、土・日・祝日は休みのはずが
日曜だけは何とか休めるようにしよう!とか
その日曜も出になっちゃった!とか…
おちおち休んでられない現状がもともとあり、
その上、同僚社員が退社するわ
主力ヘルパーさんが長期入院するわで
とんでもない状況になってて、そんな最中に
サービス提供責任者になったが故に、いきなり
前任者から担当の利用者さんを引き継ぎ、
支援の稼働は減るどころか増えてしまい、
疲労困憊・満身創痍の毎日だったんですが、
とうとう日曜も出勤して事務作業をしなきゃ
仕事がおっつかなくなったって訳です。

毎年の年末行事である妻との共同作業
「薔薇の剪定・誘引」「大掃除」は
空いた時間に少しずつ進めることにします。
MV製作は、しばらくお休みです。

でも、手話や、ケアマネ勉強や、ブログは
続けて行きますよ!

Because, that’s my life !

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2016年12月4日日曜日

多様性を見出す

私は、人のことを健常者とか、障がい者とか、
分けて考えるのは、あまり好きではありません。
人と違うとか、人より劣っているとか、
そんなふうに感じる人がいるなら、
私は聞いてみたいです。

「人って誰のことですか?」

世の中には実に様々な人がいて、
自分とあまりにも違う感性で
違う行動をとる人がいると、
唖然とすることがありますね。
すると、くせ者・乱暴者・薄情者など、
レッテルを貼ってしまいがちですね。
すると、多様性のあるはずの人が、
ひと色にしか見えなくなってしまいますよね。

「障がい者」というレッテルは、
行政として支援の必要性を判断するために
線引きしているものだと、私は思っています。
それによって、障がい者を支援するための
法整備がなされるなどの良い面がある一方で、
多様性のある人が「障がい者」という
「ひと色」で見られ、差別や偏見にさらされる、
そんなレッテルにもなりかねません。

愛すべき私のFB友は、
自らを発達障がい者と称し
事業を展開したり、コンビニでバイトしたり、
選挙に出馬したり、裁判で戦ったりしています。
障がい児の塾で先生もして
「障がい児だからこそ特化した教育を」
の考えのもと、幼い子に英語を教えています。
でも「自分は本当に子ども達の役に立てて
いるのか?」と不安になることもあるそうです。
そんな彼でさえ、障がい者というレッテル故に、
常に差別や偏見と戦わざるを得ないのです。

私は、彼には是非とも信念を貫いてほしいと
思っていますが、障がい者だからこそ
特化した教育が必要だとは思っていません。
誰にでも同じことが言えるのだと思っています。

障がい者という言葉も、
その言葉で健常者と区別されることも、
この世から無くなりはしないでしょう。
自分を「障がい者だ。」と名乗らざるを得ない
場面も少なからずあるでしょう。

大事なことは、
健常者であれ、障がい者であれ、
人をひと色で見てしまわず、
人が持つ多様性を見出そうとする
姿勢ではないでしょうか。

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