2016年2月29日月曜日

民主党の野田佳彦さんが国会で
総理大臣経験者としては異例の
質問に立ったんだそうですね。
民主党政権当時に
野田総理と安倍総裁による
党首討論の場で、議員定数の削減を
約束して衆議院解散を決めた経緯を
振り返り「国民に嘘をついたことに
なりませんか?」と言ったそうです。

次々と公約違反をして下野した政権
の総理だった方だけに、ご自分が
見えてないのかな?って思いますね。
人間、誰にでも間違いはありますから
間違いを犯した人は絶対に人を
批判してはならないという訳じゃ
ないですけど、つい最近のこと
ですし、他にも言いようがあった
んじゃないかな~って思います。

去年、安保法案のことで騒ぎが
ありましたが、自民党が公約して、
選挙に勝って、やったことですから、
嘘をついたことにはなりませんね。
議員定数削減に関しては、約束を
果たしてないのは確かですから、
嘘つき呼ばわりされても仕方ない
ってことにはなるんですが…。

東芝の元社長・土光敏夫さんは
「議論することは良いことだが、
 互いに自らを問い、自らの姿勢を
 正すことが先決である。」
(当ブログで2015年3月13日
 『己を知る力』で紹介)
と言っていますが、大賛成です。
自分を棚に上げて行う議論からは
無責任な結論しか得られないですよ。

日本の選挙制度が小選挙区に変わり
政権交代可能な2大政党制を目指す
という流れになったものの、
1強多弱の構図が定着化
されつつあるのは、国民にとって
有り難いことではないですね。
万年与党は権力にあぐらをかき
既得権をむさぼる。国民の声にも
無頓着になって行きますね。
たまにバラマキやったり
目玉人事やったりして
人気取っときゃいい、
北朝鮮や中国を悪者にして
ナショナリズム煽っとけばいいと、
国民を舐めてかかりますね。
万年野党は出来もしない綺麗事
ばかり並べて、政権批判に終止する。
政策の実現性より己の保身が優先
される。政権復帰を目指すために真に
必要な議論をしようとしない。
「批判票でも何でもいいから、
 自分だけは受かりたい。」
ってなことになりかねませんね。

是非とも国民のために
良識と責任感のある
政権交代可能な2つの政治勢力を
作って頂きたいものです。

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月25日木曜日

適応機制

先日、
妻が2泊3日の旅行に行ったんです。
妹と娘夫婦と4人で
大阪のUSJへ行きました。
せっかくだからと、翌日は京都を
観光してきたらしいです。
一緒に行くかと誘われましたが
「2時間待ちでハリーポッターなんて
 ヤナコッター。」って
断っちゃったんです。
帰って来るなり
「大阪って感じだよ~」って言うから
「何が~」って聞いたら、
入場料も食事も土産物も
何から何まで高くて
ディズニーランドの1.5~2倍位
お金がかかっちゃったんですって。
そのくせ結構ショボかったって…。
オーマイガー!
行かなくて良かった!
私は大の行列嫌い。
その上、高い物嫌い。
きっと怒り狂っていたことでしょう。

…とは言うものの
その間、私はテンションが上がらず
なんだか塞ぎこんでましたよ。
あらかじめ慰謝料として
お小遣い3千円頂いてたんですが
ピカソ(ドン・キホーテ)へ行って
そのお金でスマホの
頑丈なケース買っただけで、
ほぼ家ん中でグダグダしてました。
私、結構なインドア派でして、
掃除・洗濯・食事・30分半身浴・
ストレッチ・作曲・ブログ・FB・
テレビor音楽観賞・お勉強、なんて
ことしてるのが好きなんですよ。
外出はせいぜい買い物とウォーキング
ぐらいなもんですが、それでも
アッという間に時間が経っちゃって
ぜんぜん足りないくらいです!
男と女、入れ替わった方が良かったね
って、妻とよく話してるんですが、
これはもう貧乏育ち故ですかね、
お金がかからないんですよね。
しかも、どこかへ行ったり買ったり
しなくても、精神生活は
精神の広がりで幸せになれますから。
だから、歳とって外出できなくなって
先にボケちゃうのは妻の方だと
思いますよ。

…とは言うものの
やっぱり妻の存在は私にとって
重要だったんですかね?
自分の元気のなさに
自分でも閉口しました。
どうせ2人で家にいたって
食事と買い物の時ぐらいしか
一緒にいないんですが、
そんな人でも『居てくれる』ことが
有り難いことなんでしょうか?
じゃあ、プロデューサーとして
年間240日も旅暮らししてた頃は
どうやって生きてたんだと
不思議になりますよね!
私としては、その仕事をやると決めた
以上は逃げ出せないんですから、
その環境でも自分なりに幸せを
見出せるように自分をコントロール
するしかないと無意識のうちに悟り、
実践していたんだと思いますよ。

介護の勉強をしてると『適応機制』
(防衛機制)について学ぶんです。
欲求不満により社会に適応出来ない
状態に陥った時、本能的衝動を
コントロールし自我の再適応を
試みるメカニズムなんだそうです。
抑圧・投影・同一視・取り入れ・
合理化・反動形成・分離・退行・昇華・
打ち消し・置き換え・補償・
自己への向き換え・逆転・知性化
があるんだそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
当時の私は、家族と一緒にいたい
という欲求を抑圧し、家族への愛と
義務を分離し、自らの仕事を昇華し、
芸術創造や健康管理に欲求の対象を
置き換えていたのかも知れません。

ともあれ、24年間に渡る旅暮らし
から開放され3年が経ちました。
そして、人生のパートナーである
妻の存在を再確認しました。しかし
これから一切の適応機制なしに
生きて行けるとも思えないんですが、
なるべく妻との折り合いをつけて
行かなきゃなって、思いましたよ。

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月22日月曜日

登録時代 Part6

訪問介護ヘルパーは、各社指定の
記録用紙に支援の記録を書き込み
月に1~2回、溜まった書類を
事業所に提出するんですね。
私はルールは守りたい方なんですが、
なんせ月200時間の稼働、しかも
8社掛け持ちしてましたから、
全社にきっちり月末に提出するのは
大変なことでした。ある会社に、
どうしても月末に寄る時間がなく
翌日に提出しに行くと、事務の方が
「皆さんに月末に提出して頂いて
ますので、武内さんだけ例外には
できないんですよ。」と言われました。
その時から私は、自称
『シンデレラ・ヘルパー』と名乗り、
何が何でも月末の夜12時までに
会社のポストに入れに行くように
なりました。

鬱の傾向があるという説明を受け
ある高齢男性の担当になりましたが、
私が行くと、よく話すし、よく笑うし、
普段は自分で食事したり着替えたり、
とても鬱とは思えない方でした。
動作が遅く、歩行が小刻みで
転倒の危険があり、夜は南京虫が
出て来て眠れないとこぼしてました。
身体に虫刺されの後はなく、部屋も
掃除が行き届いてましたので、私は
間違いなく幻視だと思いました。
そして、それらの症状を総合すると、
どう考えても『ルビー正体型認知症』
だという確信に至り、事業所の
所長さんにそう申し上げると、
「ケアマネさんは鬱だって
言ってるんだよね~」と言われ、
それっきりになりました。

登録ヘルパーが新規の利用者さんの
担当になる時、サービス提供責任者
の方から利用者さんの情報を得て、
支援の現場に同行して仕事を覚える
訳ですが、きちんと利用者さんの
病歴から何から伝えて下さる方は
滅多にいませんでした。何をして
帰るのか、それを見て覚える、
そして若干の注意点だけ教わる、
その程度で仕事してるヘルパーが
この業界では実に多いと思います。
学校では『チーム・ケア』という、
医師・看護師・ケアマネ・サ責・
ご家族、そしてヘルパーまで皆で
利用者を支えるなんてことを
教わって資格を取るんですが、
とてもじゃないが、その輪の中に
自分が入ってるなどとは思えない
ような現場の実態でした。

「会社の社長さんでプライドが高く
神経質だから気をつけてね。」と
言われて始めた支援なのに、
更衣介助中に自分の手が社長さんの
鼻先に触れてしまいました。
社長さんは激怒し介助を拒否、
その日は奥様に続きをお願いして
帰りました。事業所にその旨報告し、
翌週また支援に行くと、私の顔を
見るなり拒否されてしまいました。
私はとっさに、その場に土下座し
「先日は申し訳ありませんでした。
どうかもう一度だけチャンスを
頂けませんでしょうか。お願い
します!」と言いました。
奥様は涙ぐみ「お父さん、ヘルパー
さんにこんなことさせないでよ…。」
とフォローして下さり、何とか支援を
行うことが出来ました。その日から、
私と社長さんの信頼関係が徐々に
深まり、やがて毎日私に来て欲しいと
言って頂けるようになりました。
サ責の方からも、妻からも、
「土下座なんて…」と言われましたが
私、舞台では何度か土下座したことが
ありましたが、実生活では経験が
なかったんで、一度やってみても
いいかな?って、とっさに
思っちゃったんですね。

利用者さんもヘルパーも
生身の人間同士ですから、
色々なことがありますよね。でも、
相手にレッテルを貼ってしまわずに、
心の通い合いの中から信頼関係を
深めて行くことが大切なんだと、
自らの体験で学びしましたよ。

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月18日木曜日

ベートーベン第6番

ベートーベンの交響曲と聞くと
『運命』『第九』をイメージする方が
多いでしょう。そして、どちらも
出だしが短調なので、ベートーベン
は暗い曲が多いというイメージを
持つ方も少なくないでしょう。
でも、9つある交響曲のうち短調は
その2作品だけで、他は全て長調。
その2作品にしても、最後は爆発的な
長調で終わっています。彼の肖像画も
恐い顔してますし、耳の病気で悩んだ
ことなどから、人間的にも暗い人では
ないかと思われがちですが、意外にも
快活で商売上手な方だったようです。

『交響曲の父』と呼ばれたハイドン
から、モーツァルト、ベートーベンと
交響曲が受け継がれ、劇的に進化し、
宗教音楽や貴族社会の娯楽に過ぎな
かった音楽を、庶民がコンサートで
鑑賞する作品に高め、作曲家はその
入場料や楽譜出版料で飯を食える
ようになって行きました。

ベートーベンの交響曲の中でも特に
特徴的なのが今日ご紹介する
第6番『田園』です。9作品ある中で
『英雄』『運命』『田園』『合唱付き』
と4作品に副題がついていますが、
ベートーベン自身がつけた副題は
『英雄』と『田園』だけです。しかも
交響曲は4楽章までが常識だったのを
5楽章とし、各楽章に自らタイトルを
つけるという念の入れようです。

余談ですが、ベートーベーンは
生前のインタビューで
「最も出来の良い交響曲は?」の問に
「英雄だ。」と答えたそうで、
「最も好きな交響曲は?」の問には
「8番だ。」と答えたそうです。
私のお気に入りは5・6・7・9番で
3・8番は入ってません。創作者と
鑑賞者にはそんなギャップがある
というのも、面白いことですね。

彼は32歳の時に、ウィーン郊外の
ハイリゲンシュタットという所で遺書
を書きました。難聴が進み絶望的に
なっていたんですね。『田園』は彼の
耳がほとんど聞こえなくなっていた
38歳の春から秋にかけて作曲され、
その夏にもハイリゲンシュタットに
滞在したんだそうです。郊外の豊かな
自然、おおらか人々の中で新たな創造
に取り組んでいたことは想像に難く
ありません。『田園』は目の前の
自然や人々の描写と、そこから湧き
上がる感情の表現だと思います。
当時としては、とても斬新な試みに
満ちた作品だったんですね。

【第1楽章】
田舎に着いた時の愉快な感情の目覚め

ベートーベンの作曲法はレンガを積み
上げるが如しと、よく言われます。
運命では「ダ・ダ・ダ・ダン」の
モチーフが、これでもかというくらい
積み上げられて行きますよね。
田園の第1楽章は4つのモチーフを
次々に積み上げて行きます。



この冒頭のメロディーA・B・Cと
それに続くDで、この楽章を
説明しきってしまいます。
Aはこのように変化し



Bはこのように変化し



Cはこのように変化し



Dはこのように変化します。




彼、ハイリゲンシュタットに行くのが
楽しくて仕方なかったんでしょうね。
そんなワクワクした気持ちが良く
表れてますよ。

【第2楽章】
小川のほとりの情景

彼は『情景』と言っていますが
目に入って来る情景だけでなく
本来なら耳に入って来るはずの音、
小川のせせらぎ、木の葉のざわめき、
鳥の鳴き声などを心の耳で聴いて
音楽にしたのだと思います。

【第3楽章】
田舎の人々の楽しい集い

村の人々が酒を酌み交わし、ダンスを
踊って、楽しく過ごしている光景が
目に浮かぶようです。

【第4楽章】雷雨、嵐

まさしく雷雨、嵐です。
こんな曲はモーツァルトでも
描きませんでしたね。

【第5楽章】
牧歌、嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち

これまたタイトル通りの音楽です。
普通は長調の曲でも、時折暗い
フレーズが入って来るものですが、
この交響曲は第4楽章の『嵐』意外は
徹頭徹尾、明るく穏やかな気持のまま
進行するんですね。そういった点でも
珍しいんですが、運命を爆発的な長調
で書き上げて、クロスオーバーして
すぐにこの曲を描き上げた訳で、何か
彼の中で吹っ切れたと言いますか、
自分は心の耳を使って曲を描くのだ
というような決意があって、これだけ
陰りのない、明るくおおらかな曲が
描けたんじゃないのかなと、私は
勝手に思っています。それにしても
耳が悪くならなかったら、どんだけ
明るい曲を描いたんだ?と思うほど
明るいですよね!

それでは、私が尊敬する
レナード・バーンステイン氏の指揮
(私の作曲者としてのペンネーム
伴麗奈「バン・レナ」は
氏から勝手に頂きました)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
の演奏でお聴き下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=_1J7hUH7jlE

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月15日月曜日

ひまわりと月見草

年末年始にかけて
テレビで長嶋茂雄さんのトーク番組を
2つ観ました。そのうちの1つで
聞き手が最後に
「79歳の今の夢は?」と尋ねると
「走りたい気持ちがあるね~。
走ってみたいと、その一言…。」と
お答えになりました。

『走る長嶋』で思い出すのは
立教大学時代にホームランを打って
喜びを全身で表しながら
ダイヤモンドを一周する映像です。
当時まだ巨人軍の選手だった
川上哲治氏は、その姿を見て
「全身バネのような男だ。」と
感じたそうです。
私も、そう感じましたよ!

現役時代は人の見てない所で練習し
球場では格好良く結果を出すのが
プロの美学だと言ってた長嶋さんが、
脳梗塞を起こしてからは、同じ境遇の
人々の励みになればと、リハビリする
姿を見せるようにしたんですって。

長嶋さんのライバルとして
日本シリーズやオールスター戦で
戦ったキャッチャー野村克也氏は
こんな言葉を残しました。
「長嶋が太平洋に咲くひまわりなら
 俺は日本海に咲く月見草だ。」
当時は人気のセ、実力のパなんて
言われましたが、誰が言ったか
知らないが、人気じゃ逆立ちしても
セリーグに敵わないので、せめて
実力で負かしてやろうという気概が
パ・リーグの選手にあったんですね。

野村さんの現役時代の成績は
首位打者1回・本塁打王9回
打 点 王7回・三 冠 王1回
2901安打・657本塁打
1988打点
監督として4チームで計24年間
戦い、優勝5回(うち3回は日本一)
素質がありながら成績が伸び悩んで
いる選手を上手く再生させて
『野村再生工場』と呼ばれました。

一方、長嶋さんの現役時代の成績は
首位打者6回・本塁打王2回
打 点 王5回・三 冠 王0回
2471安打・444本塁打
1522打点
史上初の天覧試合での劇的な
サヨナラホームランや、涙の引退
セレモニーなど、数々の思い出を残し
記録の王、記憶の長嶋と言われました。
二度の巨人軍監督として計15年間
戦い、優勝5回(うち2回は日本一)
「メイクミラクル」とか
「メイクドラマ」とかの流行語を
生み出しました。そして愛弟子
松井秀喜氏と共に国民栄誉賞を
受賞しました。

選手としても監督としても
長嶋さんをしのぐ成績を誇る野村さん
ですが、ミスタープロ野球の輝き、
スター性には敵わなかったようです。

偉大なお二人の話の後に
私事で大変に恐縮なんですが
私、子供時代はずっと巨人ファン
でしたから、当然のごとく長嶋さんに
シンパシーを感じてしまう訳です。
しかし今更って感じもしますが、
よくよく考えてみれば私の人生も
間違いなく日本海の月見草でしたよ。
私には、音楽家・演劇人・介護者
という3つの私がおり、どれ一つ
とってもメジャーな存在ではなく、
常に名も無き存在でした。
そしてこれからも
名も無き存在であり続けます。

演劇をやってた頃は、70の爺さんに
なっても学校の体育館で芝居してたら
素敵だなって、舞台でばったり倒れて
ボーダーライト見つめながら死ねたら
本望だなって思ってました。

59歳の今の私は
クラリネットを吹いてみたい。
家には叔父の形見と、先輩から
譲り受けたものと、クラリネットが
2本もありますから、私の場合
吹こうと思えば吹けます。しかし
楽器は何十年も吹いていないと
容易に音は出てくれません。
吹くには、それなりの覚悟がいります。
ま、しかし、吹こうと思えば
吹けるのに、吹かないんですから
さほど吹きたい訳ではないのかな?

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月11日木曜日

高校の文化祭<後編>

今はPCで作曲・編曲している私も
当時は楽譜に手書きで書いてました。
ピッコロからバス・打楽器まで15
パートほど書く訳で、放課後から寝る
まで必死に書いても8小節書ければ
いいほう。本番までに全9曲書くと
いうことは至難の業でした。

家庭のゴタゴタで私が辛かった時期に
支えてくれて、1年半交際してくれた
彼女に、私の方から春休みに入る前に
別れを告げました。共有する時間は
全く確保できないと考えたからです。

それでも、3年生になると次第に私は
授業をさぼるようになりました。昼間
はずっと家で譜面を書いて、部活が
始まる頃に登校する、そんな日が多く
なりました。下校するクラスメイトに
「おはよう!」と言いながら登校する
劣等生になりましたが、何故か先生方
は誰一人、私を咎めませんでした。
「武内君は自分のやりたいことを
やっているんだから、いいんだ。」
と授業中に言ってくれた先生がいた
という噂を聞きました。当時の若者は
無気力・無責任・無感動・無関心の
4無主義と揶揄されてましたから、
自分の意思で何かに打ち込んでる姿は
好感が持てたのかも知れません。

夏休みにはブラバン、コーラス部、
器楽部の合同合宿を福島県の
猪苗代湖畔で行いました。しばし
作曲から離れて練習に没頭しました。

しかし、それだけ打ち込んでも
本番間近になるまで全曲書き上げる
ことは出来ませんでした。2学期に
入ると演技の稽古に時間をとられる
ようになったんです。私は脚本・演出・
音楽の他に、出演者としても2役を
こなさなければなりませんでした。

本番前日、問題が起こりました。
杉並公会堂にはオーケストラピットが
ないので、舞台前に椅子を並べて
そこに楽団が座る、そこまでは想定
していたんですが、暗転になったら
真っ暗で譜面が見えないよな!公会堂
に問い合わせたらライト付きの譜面台
はないとのこと…。そこでブラバンの
部員が徹夜で譜面台用のライトを
作ってくれました。

そんな仲間の頑張りもあって
無事、公演は終了。もちろん内容は
素人高校生の作品ですから、論評に
値するものではなかったですが、
1年3組の諸君が歌って踊って
観客が拍手喝采してくれたことが
嬉しい思い出となりました。

終演後、私は放心状態で独り公会堂の
廊下を歩いていました。まるで映画の
スローモーションのように…。
先生方が私に握手を求めてきて
口々に言いました
「武内君、これで終わらせるのは
もったいない。どこかでもう1回
やったらどうだ!」と…。
今思えば、最上級の褒め言葉を頂いた
訳ですが、当時の私は
「冗談でしょ。こんなレベルのものを
再演する意味もないし、これ以上
みんなを引っ張っては行けない。」
祭りの後の虚脱感が私を襲ったのか、
その日、誰とどのように帰ったか
全く覚えていません。おそらく
どこかで打ち上げをしたんでしょう。

クオリティーがどうであれ
そんなことは関係ない。
誰も考えもしないようなことを
本気で考え、そしてそれを
大人の手を借りずにやり遂げたこと、
別々の部活やクラスの生徒達が
1つになって成し遂げたこと、
そこに価値があったんだと思います。
私の人生で最も印象に残る、
そして心の振幅の大きな出来事の
1つでした。何の打算もなく、
ただただやりたいことに没頭できる、
それが青春の特権なんでしょうね。

あのミュージカルに関わった
全ての人々に感謝するとともに、
共有した喜びを共に墓場まで
持って行きたいと願っています。

Because, that’s our life !

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月8日月曜日

高校の文化祭<前編>

私の高校時代、毎年11月3日に
杉並公会堂で文化祭がありました。
1団体20分の持ち時間で
出し物を次々と披露します。
団体というのは部活でも、有志でも、
クラスでも良いことになってました。

2年生の秋に、私はクラスの皆に
呼びかけ“West Side Story”を
やることになりました。私自身は
脚本・演出をし、その他大勢で
出演する予定だったんですが、
主役のトニー役の男子が本番直前に
なって尻込みしてしまった為に、
急きょ私が主役を演じることに
なりました。と言っても、
たかだか20分の出し物ですから
サントラ盤の音楽をBGMに
流しながら、オムニバス風に
小芝居する程度のものでした。

やり終えて、打ち上げの席で、
「来年はもっと本格的なものを!」
という話になりました。そこには
クラスメイトだけでなく、なぜか
演劇部だとか、他のクラスの奴とか、
何となく何かやりたい雰囲気の奴らが
いつの間にか集まって来てたんです。
で、話はどんどん盛り上がり、
演劇部とブラバンが中心になって
生演奏の創作ミュージカルをやろう!
ということになりました。

私は1年生の2学期に家のゴタゴタが
あり、志していた音楽を放り出して
約1年が経っていました。大学へ
進学するつもりで勉強してましたが、
何か煮え切らず、体の真ん中に
ポッカリと穴が開いたような
空虚な気持ちを抱いていました。
「芸の道へ進むなら勉強は無用…。」
思えば、この時の選択は
我が人生最大の選択でありました。
「大学受験する気持ちで1年間
ミュージカル創作に没頭しよう。」
打ち上げでの盛り上がりから1ヵ月
ほど考えた末に、そう決心しました。

出し物は演劇部の男子の発案で
シェイクスピアの“ベニスの商人”を
ミュージカル化すると決まりました。
が、同学年の仲間は進学希望者ばかり
なので、脚本も作曲も私が引き受ける
ことになりました。私は2年生の間に
脚本を書き上げ、3年生になる前の
春休みから作曲にとりかかりました。
原作を極力カットして、より短時間で
出来る作品にしたかったんですが、
富豪の娘ポーシャに求婚する男達に
日本国の神風天皇を越天楽に乗せて
登場させるなどの遊びを入れたり、
ミュージカルシーンも多かったりで、
どう考えても上演時間が1時間40分
程度になりそうでした。1団体20分
なので、演劇部とブラバンだけでは
40分しか確保できません。器楽部
(ギター&マンドリン)とコーラス部
に声を掛けたら参加に同意してくれ
ましたが、ダンス部は独自の発表を
したいと断られました。苦肉の策で、
1年3組に参加を呼びかけました。
たまたまブラバンの新入部員が多く
在籍していたクラスだった
というだけの理由でした。

私は1年3組に参加を呼びかけに
行った時のことを忘れません。私が
教壇から説明をする、私を見つめる
生徒の中には、ブラバンの可愛い
新入生達がいて、キラキラした目で
こちらを見つめてる…。

自分で言うのも何ですが、あの時の
私は人生で最も輝いていたのでは
ないかとさえ思えるような
素晴らしい瞬間でした。
もしタイムマシーンがあったなら
私は迷わずあの瞬間に
ワープしたでしょう!

…という訳で、どうにか
1時間40分の上演時間を確保し、
生演奏のミュージカルを創作し
発表するという、ご機嫌な計画が
実行されることになりました。

To be continued

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月4日木曜日

My Favorite #23 落語

え~
近頃はテレビの影響なんでしょうか
日本中どこへ行っても、皆さん
標準語を流暢にお話になりますね。
するってえと「方言が崩れて
きちゃったよ~。」とか「そのうち
無くなっちまうんじゃねえか?」
なんてことになりましてね、
それはそれで淋しい気も致しますが、
ま~どこの方言が無くなると言って
一番無くなってきてるのが
他でもない江戸弁ってやつですね。
落語家以外に話す人はいませんよ。
街へ出ても家ん中でも、滅多に
聞かれなくなりました。

どの地方の方でもそうでしょうが
言葉てえ物は、やはり自分が
幼少の頃から聞き慣れたものが
心地いいんですね。ですから
江戸落語は我々江戸っ子にとっては
江戸弁を聞いてるだけで心地良い。
スカッとする。でまた
江戸っ子気質と言いますか、
江戸っ子の人情・心意気みたいな
ものに触れて、何か自分の
アイデンティティーみたいなものを
思い起こさせてもらえるような
そんな気も致しますね。ですから、
江戸落語は単なるお笑いではなく
庶民の情や機微を伝える『語り』
なんでございますよ。

それでは今日は
名人上手がキラ星の如く
いらっしゃった江戸落語の中で
選びに選んだ私のお気に入りを
ご紹介させて頂きます。
どうか、ごゆっくりお楽しみ下さい。

“唐茄子屋政談”(三遊亭圓生)
人情噺・音曲噺を得意とした
圓生さんの数あるレパートリーの
中でも特に有名な演目でした。
唐茄子とはカボチャのことです。
人情噺、泣かせる落語の代表作と
言えるんじゃないでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=bzJsXV-dm-8

“居残り佐平次”(古今亭志ん朝)
廓噺が得意で色気のある噺家として
人気だった志ん朝さんの代表作。
花魁役がこれほど板につく落語家は
志ん朝さん以外にないと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=adZG2r1ZaKg

“青菜”(柳屋小三治)
滑稽噺・長屋噺を得意とする
小三治さんは、私が一番好きな
噺家さんです。出て来ただけで
笑いたくなる、そんな雰囲気を
持っていらっしゃいます。
https://www.youtube.com/watch?v=peJ_iAcpKrc
 “野ざらし” (柳屋小三治)
大好きな小三治さんので
二題ご紹介!
https://www.youtube.com/watch?v=EPTuY8D3giw

“禁酒番屋”(柳屋小さん)
お酒が大好きだった小さん師匠は
柳屋小三治・立川談志の師匠で
演目も酒関連を得意としていました。
https://www.youtube.com/watch?v=PvwxS1OnoWc

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

2016年2月1日月曜日

ヘレンさんのメッセージ

ヘレン・ケラー(1880~1968)
アメリカ合衆国の教育家、
社会福祉活動家、著作家。


視覚と聴覚の重複障害者
(盲ろう者)でありながら
世界各地を歴訪し、
障害者の教育・
福祉の発展に
尽くされました。

映画や演劇で『奇跡の人』を
ご覧になった方は
良くご存知かと思います。
音も光もない世界にいた
少女ヘレンが、
サリバン先生との出会いによって
様々な物事を感じ
理解できるようになる、
実話に基づく感動の物語です。

「世界で最も素晴らしく
最も美しいものは、
目で見たり手で触れたり
することはできません。
それは、心で感じなければ
ならないのです。」

「世の中は
辛いことでいっぱいですが、
それに打ち勝つことも
満ち溢れています。」

この世に生きる全ての人々に贈る
応援メッセージですね。
勇気づけられますね。

皆さん
辛いこと、悲しいこと、
これからもあると思いますが、
打ち勝って生きましょう!

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。