2016年8月28日日曜日

介護文学 Part2

仮に私が支援中に、こう感じたとします。

「入室して私が『今日はお加減いかがですか?』と
尋ねると、とても嬉しそうな顔をされました。でも
体温は36.8℃と少々高めで、お元気がありません
でした。陰部に、ほんの少し赤みがありました。
温タオルを腰に当てると、気持ち良さそうにして
おられました。食欲旺盛ですが、おかずを少しだけ
残されました。吸い物、お茶などで水分補給もされ
ました。美味しそうに食べておられましたので、
配食弁当はお嫌いでないようです。心配なのは、
いつもより箸の運び方がゆっくりだったことです。
食後に服薬を確認し退出しました。」

もし私が、この通りメモに書き残しておけば、
ご家族や事業所の責任者や他のヘルパーさんは、
私が利用者さんを細かく観察し、丁寧に記録して
いることを評価してくれるかも知れません。
しかしこれを、行政の指導に従って、主観を交えず
客観的事実だけで書くと、こうなります。

「体温36.8℃・陰部に赤みあり・野菜炒め以外は
完食・吸い物とお茶を1杯ずつ摂取。服薬。」
せっかく私が利用者さんを観察し、色々気づいたと
しても、それが伝わらない文章になってしまい
ます。なぜこうなるかと言いますと…

「今日はお加減いかがですか?と尋ねると、とても
嬉しそうな顔をされました。」とありますが、
「嬉しそうな顔」と感じたのは、あくまで私の
主観であって、客観的事実とは言えません。

「お元気がありませんでした。」とありますが、
これも私の主観に過ぎません。普段から口数の
少ない方だし、顔色が赤くも青くもないので、
客観的事実だけで表現のしようがないのですが、
私には解ったのです、元気のないことが。

「陰部に、ほんの少しだけ赤みがあった。」
と大事なことに気づきましたが、「ほんの少し」
は主観ですから書けません。色見本でも作って
一番近い色のNoを書き込むしかありません。

「とても気持ち良さそうにしておられました。」
とありますが、これも主観ですから書けません。

「食欲旺盛」も主観。「おかずを少しだけ残され
ました。」の「少しだけ」も主観なので、正確に
記録するなら残り物を軽量しなければなりません。
「美味しそうに食べておられました。」も「配食
弁当はお嫌いでないようです。」も全て主観です。

「いつもより箸の運び方がゆっくりだったこと。」
と、また大事なことに気づきましたが、私は
利用者さんの「いつも」を把握している訳では
ありませんし、ゆっくりとか早いとかの感覚も
私の主観ですから書けません。

日々、一番近いところで利用者さんを観察している
ヘルパーの主観を信用せず、客観的事実だけを
記録させるのは、もったいないような気がします。
「記録に書けないことは口頭で伝えればいい。」
と言う人もいますが、文章は主観NGで口頭は
主観OKというのも、筋の通らない話です。
内部カンファレンスも主観NGでは、
とても窮屈な話し合いになるでしょう。

思った通りに記録を書けば、ご家族が早めに
利用者さんの異変に気づけたかも知れない事例で、
私が模範的な記録を書いたがために利用者さんに
不利益が生じたとしても、行政が責任をとって
下さることはないでしょう。が、私達介護者に
とっては、利用者さんの安全確保が第一義です
から、恥を忍んで不出来な記録を書いてしまう
ことがあるのかも知れません。

そうならぬよう、勉強あるのみですね。

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2016年8月21日日曜日

着々と事を進める

私は、着々と計画通りに事を進めるのが好きです。
当ブログもテーマの基本周期を決めてますし、
更新する日時を皆さんにお伝えしないと気が済み
ません。「期待して開いてみたら、まだアップして
なかった。」って思いをして頂きたくないんです。

仕事・手話・ブログ・体操・FaceBook・ケアマネ
の試験勉強・家事・入浴をコンスタントにこなす
ルーティンが出来てます。FaceBookの投稿でさえ、
FB友を飽きさせないようにテーマの基本周期を
決めてます。TVはニュース以外はリアルタイムで
観ず、録画した番組を、CMを飛ばし、興味のない
場面を飛ばしながら、早回しで観ます。

仕事であれ、趣味であれ、家事であれ、何でも
「いつまでにやる。」と無理のない計画を立て、
そこから逆算して日々のノルマを自分に課し、
粛々とこなします。それも、毎日少しずつ全てを
平行して進めるのが好きで、今日は勉強、明日は
手話というやり方は、あまり好きじゃないんです。
ダイエットも4月の頭に「23週で4.6kg落とす」
と決め、毎日体重計に乗ってチャックしています。
9月の健康診断日には目標体重になる予定です。

そんな私ですから、年末の大掃除の時には妻と
喧嘩になることが多いんです。妻は私と違って
何事にも計画を立てませんし、自己コントロール
めいたことは一切しない自由人です。大掃除も
気の向くままに、やりたいことをやりたいように
やります。私は物を片付け、整理して、最後に
掃除をしますが、妻はいきなり掃除から始めます。
それでよくヘルパーが務まるなと思うくらいの
段取りの悪さですが、彼女には段取りという概念
がない(言い過ぎかな?)ので、仕方ないんです。

眠る時間以外はボーッとする時間がない私の生活
ぶりを知る人は「ストイックだ。」と言いますが、
私はプロデューサー時代に身についてしまった
職業病だと思ってます。演劇プロデューサーは、
期日までに様々な事を同時に進める必要があり、
綿密な計画性と、それを着実に実行する実行力、
イレギュラーなことにも対応出来る柔軟性も持つ
マルチタレントであることが理想なんです。でも
世の中のプロデューサーがみんな私みたいだとは
限らないので、やっぱり私の個性なんでしょうね。

世の中の人がみんな私みたいだったら、物事は
ちゃっちゃと進んで行くでしょうが、なんだか
潤いがなくなっちゃうかも知れませんよね。
でも、そう思っても、変えることは出来ないし、
変えようとも思わないんですよね。私の信条は
「変わることの出来る自分」なんですけどね…。

ひょっとして死期を感じた時にも、
ちゃんと計画立てて粛々と死んでったりしてね。
…冗談じゃなく。

Because, that’s my life !

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2016年8月15日月曜日

不戦の誓い Part3

71年前の今日、ラジオから流れる玉音放送で
「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ
共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(私は
日本政府から米・英・中・ソの四国に対して、
それらの共同宣言を受諾することを通告するよう
下命した。)という天皇の言葉を聞き、国民は
敗戦を知りました。共同宣言とはポツダム宣言
のことで、それを受諾したことを「無条件降伏」
と考えている人も多いようですが、宣言には
「全日本軍の即時無条件降伏」と書いてあり、
無条件降伏を迫られたのは国家でも国民でも
なく日本軍だった、というのが真実です。つまり
今日は「旧日本軍の敗戦記念日」と言い換える
ことも出来る訳です。

以下の資料は「世界戦争犯罪辞典」
(編・秦郁彦、文藝春秋)からのピックアップ
であることを、あらかじめお断りしておきます。

「ビハール号事件」(1944年3月)
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、
揚収した生存者60名を甲板で処刑。

「ババル島事件」(1944年10月~11月)
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による
住民虐殺事件。被害者数704名。

「ポンナチャック事件」(1943~1944年)
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模
な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人。

「デュエナス神父処刑事件」(1944年7月)
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強か
った神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。

「メリッソ村民虐殺事件」(1944年7月)
グアム東南部のメリッソ村民を日本軍が虐殺。
被害者数46人。

「トラック病院の捕虜生体解剖」(1944年2~7月)
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名が
ショック死。生き残った二人はダイナマイトで
爆殺された。さらに他の4名にぶどう状球菌を
注射し全員死亡させる。

「ティンブンケ事件」(1944年7月)
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名
の村民が日本軍に集団殺害された事件。

「パラワン島米兵捕虜殺害事件」(1944年12月)
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行
場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が
処刑される。

「父島人肉食事件」(1945年2月)
撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、
その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困って
いたわけではなかった。被害者数8名。

「九州大医学部生体解剖事件」1945年5~6月)
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、
輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生き
ながらえるかを実験した。

「マニラ市街戦での虐殺事件」(1945年2月)
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓
地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄で集団殺害。

「石垣島事件」(1945年4月)
石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。

「ランソン事件」(1945年3月)
仏印北部のランソンで仏兵捕虜を処刑。

「サンダカン死の行進」(1945年2~6月)
北ボルネオのサンダカンから260km離れた西海岸
へ移動させられた2000人の英豪捕虜の大部分が
飢えと病気のため死亡した事件。

「花岡事件」(1945年6月)
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で働かされ
ていた中国人労務者が起こした蜂起・逃亡事件。
見せしめの為100人が拷問後処刑される。

「ヤルート島民処刑事件」(1945年5月)
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民
21名を殺害。

「カラゴン事件」(1945年7月)
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民600名を
集団殺害した事件。

「オーシャン島住民殺害事件」(1945年8月)
島民140名に終戦を告げた後、全員を銃殺。

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2016年8月14日日曜日

ナショナリズム

東京代表の高校が甲子園で勝ち進むと、
自然と応援に熱が入りますね。
東京がダメなら関東。関東がダメなら東日本…
なんて具合に、皆さんは応援の対象範囲を
広げたりしませんか?

オリンピックでは、
日本人選手の活躍に一喜一憂しますね。
君が代や日の丸を素直に受け入れられない私も、
表彰式を見て涙がこぼれることもありました。

天皇を「陛下」などと呼ばない私も、
生前退位のお気持ちを聞かされれば
「5年もほったらかしといて、これから議論?
議論なんかいらねえ!」って叫んでしまいます。

今時は、卒業式で国歌斉唱の際に
起立斉唱を拒否する先生がいるらしいですが、
私が小・中学生の頃は、儀式において
国旗掲揚・国歌斉唱は当たり前でした。

「皇族の1週間」みたいな番組も、
子どもの頃は何の抵抗もなく観てました。
思えば私達は、子どもの頃から自然と
国旗や国歌や皇族に対して愛着を感じるような
感性を育まれて来たんですね。

でも私は、
国家の為に命を捧げる気はありません。
万が一日本が侵略を受けて
戦わねばならなくなったとしても、
それは「お国の為」ではなく
「家族の為」ということになるでしょう。

「国民の為の国家でなく、国家の為の国民だ。」
などと、時代錯誤なことを言う政治家がいて、
それに共感する国民がいて、
昨今の世の中の右傾化に心配の種が尽きません。

私の郷土は東京です。
でも、郷土愛があるか?と問われて
返す言葉がありません。郷土を愛するって
具体的にどんなことなんでしょう?

国家って何ですか?
私にとっては、市区町村のでっかいやつ
単なる行政上の区分でしかありません。
国家の意味が解らないのですから
当然「愛国」の意味も解りません。

ナショナリズムは必要ですか?
私にとって、
どうしても必要なものではありません。
むしろ弊害の方が多いと思っています。

「国家のための国民」であってほしいのは
為政者だと思っています。いざ戦争となったら、
命がけで戦場へ行ってくれる人間を
日頃から育てておきたいのでしょう。
戦争はいつも国民の都合でなく、
為政者の都合で始められるからです。

高校野球やオリンピックを無邪気に観戦しながら
ついそんなことが頭をよぎってしまうオヤジの
気持ちを、次世代に伝えて行った方がいいんで
しょうかね。私自身、戦後生まれですけどね…。

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2016年8月9日火曜日

不戦の誓い Part2

「一部の軍国主義者が加害者であり、一般国民は
被害者。」というのが国際的な歴史認識だ。しかし
「原爆を落としたのは誰?」と聞けば「アメリカ」
と答えるように「虐殺をしたのは誰?」と聞けば
「日本」ということになります。私達は、被害者
としての記憶だけでなく、加害者としての記憶も
語り継いで行かねばならないと、私は思います。


以下の資料は「世界戦争犯罪辞典」
(編・秦郁彦、文藝春秋)からのピックアップ
であることを、あらかじめお断りしておきます。


「七三一部隊と細菌兵器」(1933~1945年)
 石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的
に人体実験を行う。七三一部隊の記録によれば
1943年までの検体数は850体。1940年10月に
南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。
この攻撃後から2ヶ月間のペストによる死者
106名。ちなみに、日本は生物兵器を禁止した
ジュネーブ議定書を批准していない。


「真珠湾奇襲攻撃」(1941年12月)
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺とし
て原爆投下が正当化された。


「中立国タイとの交戦」(1941年12月)
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の
許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイ
の中立を侵犯する。


「香港戦で英軍捕虜の処分」(1941年12月)
香港戦における投降英軍兵士に対する殺害事件。


「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月)
バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ
られ、150名が処刑されたとされる事件。事件
自体でっち上げだとする説もある。


「アレクサンドラ病院事件」(1942年2月)
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサ
ンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。
被害者数200名。


「シンガポール華僑虐殺事件」(1942年2月)
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日
華僑粛清事件。被害者数6000人~2万人。


「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」(1942年2月)
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護
婦20名が日本兵により殺害された事件。


「ラハ事件」(1942年2月)
 日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行
場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。


「バターン死の行進」(1942年4月)
フィリピン・バターン半島を攻略した日本軍が、
投降した米比軍7万人を炎天下で徒歩行軍させ
3万人近い死者を出した事件。


「マキン島米捕虜の処刑」(1942年8月)
日本軍が占領するマキン島へ奇襲上陸してすぐに
撤退し取り残された9名の米海兵隊員を処刑。
その中に米大統領の息子J・ルーズベルト少佐が
含まれていたという説もある。


「駆逐艦秋風虐殺事件」(1943年3月)
ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑
留者移送中の駆逐艦秋風が、洋上で全員を処刑。


「泰緬鉄道」(1942年1月~)
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入
され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。


「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、
生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、
揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。


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2016年8月7日日曜日

嫌悪感を乗り越えて

私は、障がいは「害」でなく「個性」だと思って
います。人と違うことを指して障がいと言うなら、
世の中は障がい者だらけということになります。
障がいを「害」とする解釈は「害を取り除く」
という発想を生み、優生思想に発展しかねません。
「個性」と解釈すれば、その個性と向き合い
ながら尊厳を持って生きて行けると、自他ともに
認め合えるはずです。

先般の忌まわしい事件を引き起こした犯人は、
障がいを「害」ととらえたからこそ、それを
「取り除く」という発想で、自分の行動を正当化
したのではないでしょうか?
その根源には、人間なら誰でも持っているで
あろう、異質なものへの嫌悪感というものが
作用していたように思います。

体内にウィルスが入ると発熱し警告するように、
人間関係において異質なものに対峙すると嫌悪感
を抱き警告するのかも知れない、と私は考えます。
夫婦喧嘩・ご近所のいざこざ・職場での反目・
大阪人と東京人・日中韓の嫌悪三角図・男女差別・
障がい者差別・外国人差別…。どれも異質なもの
への嫌悪感が根源にあるのかも知れないと。
であるなら、差別発言やヘイトスピーチ、
そして今回のような殺人は、嫌悪感を吐き出し
浄化させようとする防衛反応であると言えます。
吐き出す方は良い気分でしょうが、
吐き出された方はたまったものではありません。

SNSにおいても、考え方の異なる人との言い合い
をよく見かけます。自分が否定された、攻撃され
たと受け取り、論破されまいと凄い熱量で作文し
返信したり、カンカンに怒ったり、一方的に着信
拒否する人も大勢います。異質なものに歩み寄ろ
うとする気配はまるでなく、猛烈な拒絶反応を
示すのです。彼らは同質な者同士で、ひたすら
嫌悪感を吐き出し合って心の安定を図っている
ように見えます。

異質な者同士が共存するには拒絶ではなく理解が
必要で、理解するには知性が必要だと、私は
思っています。私達人間は知性によって、異質な
ものへの嫌悪感を乗り越え、歩み寄り、集合体を
形成して来たのだと思います。

しかし、戦争や殺人事件は、
今なお世界中で起こっています。

私達は日々の暮らしの中で、
嫌悪感を感じている自分に気づき、
嫌悪感を感じている他人に気づき、
知性を持ってそれを乗り越え、
歩み寄って行きたいものと、
この度の事件を受けて思った次第です。

Because, that’s our life !

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2016年8月6日土曜日

不戦の誓い Part1

今日は広島市原爆投下記念日です。めでたいこと
でもないのに「記念日」とは何事だって声もある
ようですが、「記憶に念ずる」って解釈すれば
いかがですか? 私はこういう記念日は、戦争の
過ちについて正しく理解し、反省し、記憶し、
不戦の誓いとして念ずる日だと思っています。

毎年、夏になると沖縄~広島~長崎~東京で
記念式典が行われて「二度と同じ過ちを犯さぬ
よう過去の反省に立ち…」といった内容の、誰が
犯したどんな過ちなのか、はっきりしない言葉が
語られます。広島平和公園の慰霊碑に刻まれた
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬ
から」という文言にも主語がありません。でも、
慰霊の対象となっているのが、アメリカの攻撃に
よって亡くなられた罪なき日本人(一部外国人も
含む)であることは間違いないですね。つまり
これらは、被害者を慰霊し、二度と同じような
被害者を出さないために自戒し、加害者である
アメリカ人に対しても言外に「国際法違反である」
と訴えているんですね。


しかし、忘れてはならないものがもう一つ
あります。それは加害者としての記憶です。


私自身、これからご紹介する事件のほとんどを
知らずに大人になりました。親からも、社会科の
先生からも教えてもらえなかったからです。
でも、それは本当に良くないことだと思います。
旧日本軍の蛮行によって苦しみ、亡くなられた
人々のことを思わずに、イケシャーシャーと
被害者面していられないとの思いで、この特集を
考えました。どうか、おつき合い下さい。
尚、以下の資料は「世界戦争犯罪辞典」
(編・秦郁彦、文藝春秋)からのピックアップ
であることを、あらかじめお断りしておきます。


「旅順虐殺事件」(1894年11月)
日清戦争で旅順攻略の際に発生した事件。被害者
は2千~2万人と言われている。


「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894~1895年)
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛烈な掃
討作戦。日本軍の記録によれば戦闘で6000人、処
刑5600人とされているが、5万人という説もある。


「閔妃暗殺事件」(1895年10月)
朝鮮正妃である閔妃が、王宮で日本軍兵士、壮士、
大陸浪人らによって惨殺された事件。


「3.1独立運動事件」(1919年3月)
朝鮮における最大規模の反日運動で日本官憲に
より多数の死傷者をだす。


「台湾霧社事件」(1930年3月)
日本統治下の台湾霧社で先住少数民族タイヤル人
の武装蜂起に対し、毒ガスを使用して鎮圧。


「平頂山事件」(1932年9月)
満州国建国半年後、満鉄の撫順炭鉱を警備する日
本軍守備隊が近くの平頂山集落の中国人住民を大
量殺害した事件。被害者数は400~3000名。


「陽高事件」(1937年9月)
支那事変初期において内モンゴルの陽高で関東軍
チャハル兵団(兵団長:東条英機)が引き起こし
た中国人虐殺事件。被害者数350~500名。


「南京虐殺事件」(1937年12月)
日本軍が南京を攻略した際、多数の中国人捕虜、
敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。


「百人切り」(1937年11~12月)
南京攻略戦において日本兵が敵兵百人切り競争を
し、それを報道した東京日日新聞の記事が証拠
とされ、戦後戦犯として処刑された事件。100人
という数字の信憑性は疑問視されている。


「重慶戦略爆撃」(1938~1941年)
日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施し
た大規模な戦略爆撃で多数の民間人死傷者を出し
た事件。しかし戦犯として訴追された日本人なし。


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