俳優からプロデューサーに
転向してから4半世紀、私の仕事は
常に逆風との戦いでした。
児童青少年演劇の分野では
①少子化(およそ半減)
②週休2日による学校行事の精選
③不景気による料金値上げの鈍化
④教職員・PTAの文化意識低下
要するに、子どもは減るわ、鑑賞会の
機会も減るわ、料金上げらんねェわ、
なんだかんだで市場は5分の1程度に
しぼんじゃった訳です。それなのに
淘汰されない、そこがこの業界の
摩訶不思議なところで、食えなくても
バイトしながら続けるような方々
ばかりの業界だった訳です。
私は或る劇団に入って2年後に
人を指導・管理する立場になりました。
更にその6年後には自分の企画を
舞台化させて頂けるようになり
制作営業部という12人の部署の
リーダーになりました。当然ですが
給料も上がりました。給料が上ったら
自分1人分の仕事だけしてたんじゃ
泥棒と言われる訳で、人を動かして
何人分もの仕事をしなきゃならない。
でも私は、ついに最後まで、現場を
離れることはできませんでした。
顧客の反応やニーズを知らずして
企画も、宣材も、トークも、
何も生み出すことはできませんから、
その為に必要な情報収集を
人任せには出来なかったんです。
また、年間200日以上の出張を
こなしながら新作を創って行く姿を
率先垂範して見せなければ、人は
着いて来ないと思ったんです。
まだ携帯のない時代でしたから
毎週金曜日の夜になると
全国に散って行った部下達から
(人と話す時は部下とは呼ばず
後輩とか仲間とか呼んでました)
電話が入って来ます。私はホテルの
部屋に釘づけになり夕食が食べられ
ませんから、金曜日はホテルに帰る
前に夕食を済ませたものです。
劇団史上最高の売上を達成した年に、
私個人も271日の出張をこなし
億の単位の売上げを記録しました。
4千万売り上げれば1つの劇団が
回して行けると言われてましたから、
大きな数字でした。社長は年末に、
皆の見ている前で私の机の上に
ボーナスを立てて置きました。
その劇団ではボーナスは年末の1回
だけだったんで(ボーナスが出るなん
て考えられない業界です)立ったって
だけの話で、年2回なら立ちゃあ
しなかったと思いますよ。それでも
「ボーナスが立つ男」なんて異名が
ついちゃって、初対面のスタッフと
名刺交換すると「貴方ですか~、
ボーナスの立つ男…。」って
まるで守銭奴みたいなイメージが
先に伝わってて、嫌な感じでした。
当時、私は40歳。プロデューサーに
転向してちょうど10年。まさに
働き盛りでした。しかし心の中には
強いストレスを抱えていました。
売上も億の単位でしたが、借り入れも
億の単位だったので、常に不渡りの
リスクにさらされてたんです。
社長が自己顕示欲の強い方で
金の使い方が豪快だったんです。
そのくせ社員への分け前は少ないので
当然、社員からは愛されません。
そうなると、中間管理職は辛いです。
人心掌握は私の仕事になりましたが
そういう状況でも皆を引っ張って
行けるほどのカリスマ性は
私にはありませんでした。
To be continued
武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・水・金の朝に更新。
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