原敬(はらたかし/1856~1921)
1918年から1921年まで
第19代内閣総理大臣として
初めて政党政治を実施し、
交通網の整備・教育の拡充・
重工業の振興・国際協調外交などに
尽力しました。『平民宰相』と呼ばれ
自ら号を『一山』と名乗りました。
でも、彼は平民ではなく南部藩(盛岡)
の家老の家柄の次男だったんです。
けれども明治に出来た徴兵制度に
「戸主は兵役義務を免除」という規則
があったので、20歳の時に分家して
戸主となり平民籍になったんです。
徴兵逃れとは不名誉な、と見る向きも
ありましょうが、賊軍出身者として
仇の軍隊に一兵卒として徴兵される
ことへの抵抗感があったであろう
ことは、想像に難くありません。
南部藩は戊辰戦争で会津藩に味方した
ため、朝敵の汚名を着せられたんです。
おまけに薩長軍の兵士から
「白河以北一山百文」つまり
白河から北の地域は一つの山が百文の
値打ちしかないようなド田舎だと
侮辱されたんですね。当時12歳の
原少年、よほど悔しかったんでしょう
後年、わざわざ号を『一山』と
名乗ったくらいですから。
また、爵位の受け取りを固辞し続けた
ことから『平民宰相』とも
呼ばれるようになったんだそうです。
彼は23歳で新聞記者となり
26歳で外務省に入省しました。
抜群の語学力と事務処理能力を
買われてパリ公使館に勤務。
その後も勉学に励み出世街道を爆進!
39歳で外務次官
44歳から大臣を5回歴任し
62歳で内閣総理大臣になりました。
明治新政府にとって最重要課題の
一つが『不平等条約の改定』でしたが
それは、薩長出身者も賊軍出身者も
関係なく、抜きん出た国際感覚と
交渉能力を持つ者のみが成し得る
困難な課題でした。従って努力次第で
実力を発揮できるフィールドが
外交だった訳です。
彼は2度目の大臣を終えた52歳の時
なんと180日間に及ぶ世界一周の
船旅を敢行しました。そして帰国後
「アメリカが世界の牛耳を取る。」
と語り、国際協調、とりわけアメリカ
との協調の大切さを訴えました。
総理大臣になって彼が成し遂げた
大仕事は、シベリアにいた7万の
軍を撤兵させたことです。その為に
軍に大きな影響力を持つ山県有朋への
説得を試みました。
「参謀本部が天皇に直隷すると
言って、政府の外にでもあるかの
ように統帥権を振り回そうとする
のは、思慮の足りないことです。」
統帥権の独立を作った張本人の
山県に向かって、そう言ったんです。
山県は、彼の気迫と深い見識に感銘し
撤兵に同意したんだそうです。
選挙で選ばれた政治家が軍を動かす
いわゆるシビリアン・コントロール
という画期的なことを、なんと
この時代に成し遂げていた訳です。
彼は周囲の反対を押し切って皇太子
(後の昭和天皇)の半年に及ぶ
ヨーロッパ外遊を実現させました。
各地に残る第1次世界対戦の戦跡を
見て帰国した皇太子は
「世界平和の切要なるを感じた。」
と語ったそうです。
しかし、その年の秋に彼は東京駅で
右翼青年によって暗殺されました。
山県有朋はショックのあまり発熱し
夢で原暗殺の現場を見るほどでした。
「原という男は実に偉い男であった。
ああいう人間をむざむざ殺されては
日本はたまったものではない。」と
嘆いたそうです。しかし、その山県も
彼の死から3ヶ月後に死去、さらに
その10年後には満州事変が勃発
泥沼の戦争へと突き進んだ訳です。
歴史にIfはありませんが
もし彼がもっと生きていたら
第二次世界大戦でも戦勝国となり
国際協調を軸とした貿易立国として
もっと早期に経済の隆盛を
極めていたかも知れませんね。
こんな素晴らしい政治家がいたのだと
一般には意外に知られていないのは
とても残念なことです。
私には国を動かすようなことは
もちろん出来ませんが
彼を心から尊敬しつつ
「今、自分は何を成すべきか?」と
自問しながら
残りの人生を生きて行きたいです。
Because, that’s my life !
武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・水・金の夜に更新。
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