2014年12月22日月曜日

対案を考える習慣

監視カメラなど入れて
様々な制約のある中で
実験をさせるというのは
科学のすることではない
この言葉に違和感を覚えたのは
私だけでしょうか?

事は重大ですよ。
それならなぜ始めから
このような監視や制約の中では
出来るものも出来なくなると
主張しなかったんでしょうか?
それをせずに実験をさせて
最後に捨てゼリフ吐いて
何になるんでしょうか?
マスコミや世間の反応全てに
科学者のプライドが
傷つけられたんでしょうか?

私が思うに、虚偽・ねつ造は
科学のすることじゃないです。
でもその疑いがあるから
確かめなきゃならないんです。
もう、それだけで
恥ずかしいんですから、たとえ
周囲が「そこまでしなくても…。」
と言ったとしても、必死になって
解明しようとする。それが
プライドのある人の
行動じゃないでしょうか?

200回も成功したと言っていたが
厳しい監視体制の中で
“コツ”も“レシピ”も
使えなくなっちゃって
半年かかっても1回も出来なかった。
真相が解明されて本当に良かったと
むしろ感謝の意を表すべきだと
私は思いましたよ。

何かを批判する場合には
対案を用意したうえで
セットで話をするべきだと
私は日頃から思っています。
そうでないと、単なる愚痴
ガス抜きで終わってしまうからです。
テレビのコメンテーターは
適当なことしゃべってギャラ貰って
視聴者も「そうだ、そうだ。」と
溜飲下げて平和かも知れませんが
当事者の場合はそうはいきません。
「こういう方法で実験を行えば
より信憑性の高い結果が得られた
はずだ。」と主張しなければ
聞く者を納得させることは
できないでしょう。

芸術の分野でも
好き勝手な評論をする人はいますが
言うは易く行うは難し
政治も、事業も、子育ても
町内会の寄合も、物事すべからく
そうなんじゃないでしょうか?

「では、どうすべきか?」と
考えることで、得るものは大きいと
私は思います。言葉に説得力が増し
議論が具体的で前向きになります。
時間も有効に使えます。人々が皆
そういう習慣を身に着けたら
素晴らしい世界になるのでは?
私はそう思うのですが、皆さんは
いかがお考えになりますか?

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・水・金の夜に更新。
E-mail:
at-home-takeuchi@aqua.ocn.ne.jp

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