2018年3月25日日曜日

命の価値

「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク先生。
しかし、彼が教え子達に言った言葉はこうでした。

Boys, be ambitious like this old man.
少年よ大志を抱け、この老人のように。

アメリカで農業大学を設立し、学長として
充実した日々を送っていた彼は50歳の時
「北海道開拓の為、日本で酪農を教えてほしい。」
という要請を受け、大きなリスクを承知のうえで
日本行きを決意しました。日本は戊辰戦争の直後
だと聞かされ、自分が教え子と共に南北戦争に
義勇軍として参加し、多くの教え子の命を失った
ことを思い出したのです。荒廃した国土と失意の
若者達を立ち直らせる為に自分に何が出来るか
と考え、彼は若者達に農業を教えることを決意
したのです。明治初期の50歳は今の何歳に相当
するでしょうか。61歳の今の私より、
ご高齢に感じられたのではないでしょうか。

「歳をとるのは楽しい冒険だ」
と言ったのは、昨年105年間の生涯を終えた
日野原重明さんです。
彼は東京大空襲の際に
満足な医療が出来なかった体験から、
既成の概念にとらわれない改革や提言を
数多く行いました。
また『命の価値』にこだわり、
自分に与えられた時間である命を
助けを求める人の為に有効に使い、
次の時代を生きる子ども達の手本となるべき
と訴えました。そして
自ら生涯現役で医療の道を全うしました。

酸素吸入器をつけて高座に上がり、
「病院に霊柩車、いや救急車で運ばれまして…。」
なんて枕で観客を爆笑させている桂歌丸さん。
自分の病や死まで笑いのネタにしてしまう。
鼻にチューブを挿入した姿でも
人を笑わすことの出来るって素晴らしいです!
尊敬しますし、羨ましいです。

私も役者をしていた頃は、
ある日突然、舞台の上でバッタリ倒れ、
ボーダーライトを見つめながらあの世へ行く、
そんな死に方ができたら本望だと思って
いましたが、彼にも高座で笑われながら
あの世に行かせてあげたい、
そんな気持ちにさせられます。

私はクラーク先生や日野原先生のように
戦争を体験した訳でもなく、
歌丸さんのようなユーモアや根性が
あるかどうかも解りません。
年老いてもなお何かに傾注できるような
強い動機を持てないかも知れません。
けれども、せめて
人様に喜んで頂くことが自分の喜びである
との思いを胸に、
生涯現役で働きたいと思っています。
それが私に残された
命の価値だと思っています。

「この老人のように」
…言ってみたいですね。

Because, that’s my life !
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2018年3月9日金曜日

リベンジ

去年のリベンジを果たしましたよ。
手話通訳者養成講座の試験に合格です!
かみさんも合格し基礎講座2で、
私は1年遅れて基礎講座1で
受講することになりました。

4月から12月まで35回、
それが4年間続きます。
と言っても、毎年試験がありますから
もたもたしてたら何年かかるか解りません。
また、肝心な手話通訳の試験に
受かるかどうかも解りません。

順調に行けば4年後、
65歳での受験になります。
冬季五輪の選手達も
これから4年間頑張るんですから、
私も一緒に頑張りますよ。
生かされている以上
精一杯生きるのみです!

Because, that’s my life !

※土日は研修なので
 2日早く投稿しました。

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2018年3月3日土曜日

夢見る力

45歳のスキージャンパー葛西紀明さんが
4年後の北京大会を目指すと宣言しましたね。
凄いですね!夢をあきらめない!
多くの中高年を勇気づけるのではないでしょうか。
葛西さんは
24年前のリレハンメル大会で団体銀メダル。
「今度こそ金!」と挑んだ4年後の長野大会では、
直前に足を怪我してメンバーから脱落…
その心残りが執念となって、
今日までの競技生活を支えて来たようです。

「永遠に生きるように夢を見よ。
 今日にも死ぬように生きよ。」
とは、アメリカのバスケット選手
レブロン・ジェームスさんの言葉。

私は常々「生命力」は「夢見る力」だ
と言っています。「随分と観念的だな。」と
理系の方に笑われそうな気もしますが、
私流に言えば、例えばそれは
永遠に子どもでいられて
永遠に飛ぶことが出来る架空の人物
ピーターパンに象徴されているように思われます。
ウェンディは成長して飛べなくなりますが、
それは、死が近づくにつれ
夢見る力が失われて行くことを意味し、
ネバーランドとは、
大人になることを拒否した子ども達が
永遠に夢見ることを許された国を意味すると
私は解釈しています。

私は26歳の時、今はなき新宿コマ劇場で
榊原郁恵さん主演のピーターパンを観て、
顔が真っ赤になるくらいに泣き腫らし、
終演後しばらく座席から立ち上がれませんでした。
「自分は今後、身体は老いて行くけれども、
 心は老いないようにして生きて行きたい!」
私はそう決心したものですが、ふと気づくと、
夢見る力を失ってしまった61歳の自分がいます。

介護の世界では、
利用者さんが夢を抱き目標を掲げて
生活の質を向上させて行くように促すのですが、
いくら周囲がけしかけたところで
ご本人に夢見る力が残っていなければ
単なるお題目で終わってしまうような気がします。
私達は身体機能の老化ばかりでなく、
心の老化にも気を配るべきだと、私は思うのです。

世の中には80歳を超えた高齢者でも、
創作や研究に没頭する芸術家や学者さん達が、
最期まで活き活きと生き抜いておられます。
まるで人生に終止符などないかの如く…

永遠に生きるように夢を見る。
   …出来たらいいですね。

Because, that’s my life !

追伸:明日は研修なので、1日早く投稿しました。

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2018年2月25日日曜日

いつも笑顔で

スピードスケート女子500mに優勝した
小平奈緒さんのアシスタントトレーナーは、
バンクーバー、ソチで同部屋だった親友、
石沢志穂さんだったそうです。
小平さんは石沢さんに
「慰めたり励ましたりしてくれなくていいから、
いつも笑顔でいてほしい。」と言ったそうです。
頂点を目指すほど精神力の強い方の言葉だけに、
胸迫るものがありますね。

オリンピック選手を見ていて感心するのは、
試合後のインタビューで
勝った人の自慢話や
負けた人の言い訳が聞かれないことです。
プロ意識と言いましょうか、
素晴らしいと思います。

プロとは何ぞやという話になると、「お金を稼ぐ
のがプロ、稼がないのがアマ。」とか「アマに
出来ない凄いことをやってのけるのがプロ。」
とか、色々ご意見があると思いますが、
私はこう考えてるんです
「アマはプロセスが大事、プロは結果が大事。」
「アマは言い訳の必要がなく、
  プロの言い訳は通用しない。」

巨人・大鵬・卵焼き世代の私が思い浮かべるのは
「記録に残る王。記憶に残る長嶋。」です。

テレビの普及とともに
プロ野球を国民的な人気スポーツに育てた
立役者である長嶋さんは、チャンスに強く、
努力型の王さんと比較され天才と称されたものです。
けれども彼のモットーは
「人の見ていない所で血の滲むような努力をし、
華やかな舞台では、いとも軽々とやってのける、
それがプロ。」でした。

ホームランの世界記録を塗り替えた王さんは、
シーズン30HRを放ちながら
「王貞治のバッティングが出来なくなった。
人は30本もというが、私には30本しか、
なんです。」と言って引退されました。

介護の仕事に勝ち負けはありません。
余人をもって代え難い才能を
求められる訳でもありません。
しかし、お金を頂いて働く以上、
プロであることに違いありません。

「結果が全ての言い訳なし。」
それは苦しい苦しいものです。
しかし結果を出すこと以外に
その苦しみから逃れる方法はありません。
だからこそプロは、
人の見ている所であろうがなかろうが、
出来る限りの努力をするのでしょう。
「いつも笑顔でいてほしい。」と
願う心が痛ましいです。

私も歳を言い訳にすることは出来ません。
……やるっきゃないですね。

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2018年2月18日日曜日

ターニングポイント

誰にも
人生のターニングポイントがあるでしょう。
私の場合、高校2年生の年末に
人生初にして最大の
ターニングポイントがやって来ました。

私は高校1年生の秋に、
クラリネット奏者になる志を捨てました。
それから1年間、大学受験を目指して
塾へ通っていました。英語が得意だったので、
英文科を出て語学力を活かせる職に就こうと
考えていました。ところが、高校2年生の秋に
文化祭でちょっとした出し物をやり、
翌年に本格的な創作ミュージカルをやろう
という話が持ち上がり、私は自分の進路について
大学受験以外の道を考えるようになりました。
演劇学校に進み、演劇の道で生きる…。

私は年内に決めてしまおうと思いました。
演劇の道へ進むなら、高校生活最後の1年を、
学業を顧みず創作ミュージカルに打ち込む
1年にしたかったからです。
その年の末に、私は父に
演劇の道へ進みたいと打ち明けました。
「芸の道へ進むなら学歴は関係ない。
実力の世界だから思いきりやれ。
ただし、決して後悔するな。」そう言って
父は私の背中を押してくれました。
その父も7年前に他界し、
今は私の背中を押してくれる人はいません。

人生の岐路に立った時、
右へ行くにも左へ行くにも、
留まるにも引き返すにも、勇気が必要です。
一歩踏み出すには、
己の信じる道を見出さねばなりません。
そして、決して後悔しないことです。

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2018年2月11日日曜日

自分流

今までにご紹介してきた素敵な言葉たちが
頭に浮かんで来ます。

『なぜ山に登るのか、そこに山があるからだ。』

イギリスの登山家ジョージ・マロニーさんが
エベレスト登頂に挑んだ際に、記者から
「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」
と問われて、それは愚問だと言いたげに
「そこにエベレストがあるから
(Because it's there. )」と答えたんだそうです。
その言葉が日本では
「好きなことをするのに理由はいらない。」
と解釈され定着したようです。

『目標がその日その日を支配する』

横浜高校の創立者である黒土四郎さんの言葉で、
横浜高校を甲子園常連校に育て上げた
元野球部監督の渡辺元智さんが
座右の銘としていたそうです。

「富士山に登る第一歩
三笠山に登る第一歩
同じ一歩でも覚悟が違う
どこまで登るつもりなのか
目標がその日その日を支配する」

黒土さんは、そうおっしゃったそうです。
目標を掲げてそれを達成しようとする人は、
そのために自分のすべき事を考え、
1日のスケジュールを組み立て実行する。
自己管理の能力が必然的に備わるんですね。

『努力できることが才能である』

これは、晩年石川県加賀市に移り住み
九谷焼の創作に没頭した、
画家であり陶芸家の硲伊之助さんの言葉です。
松井秀喜さんの父、昌雄さんは
その言葉を紙に書いて2人の息子に渡しました。
秀喜少年はその紙を部屋に貼り
座右の銘にしたそうです。

要介護者が介護サービスを受けようとすると、
ケアマネだのサ責だのが
入れ替わり立ち替わりやって来て、
根掘り葉掘り聞かれた挙句に
「長期目標と短期目標を考えましょう。」
などと言われることになりますが、
マロニーさんのように
理屈抜きに好きなことができ、
黒土さんのように1日のスケジュールを組み立て、
硲さんのように努力を続けられるなら、
たとえ要介護者になっても、
他人様にとやかく言われず
自分流に充実した日々を
送って行けるのかも知れません。

名言・格言と出会った時
「確かにね~」と感心しているだけでなく、
確実に自分流の中に取り込んでしまうのも
いいかも知れませんね。
私の登る山は、さほど高い山ではありませんが、
そんな風にして生きて来たし、
最期までそうありたいと思っています。

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2018年2月4日日曜日

スマホのない時代

私が幼い頃にテレビ・洗濯機・冷蔵庫、
いわゆる三種の神器と言われた家電製品が
各家庭に普及しましたが、
電話が各家庭に普及し始めたのは、
私が小学校3~4年生の頃でした。

当時の電話はダイヤル式の黒電話、
それも旧式のやつで、大家さんのうちにしか
ありませんでした。ですから、親戚縁者から
かかって来ると大家さんが
「武内さ~ん、電話ですよ~!」って
呼びに来てくれて、大家さんちに上がり込んで
話をさせてもらう…。お互いプライバシーも
へったくれもなかった訳です。

こっちからかける時は公衆電話でしたね。
昔はタバコ屋さんに赤電話がありましたよ。
電話ボックスも徐々に増えて、
長電話する時は10円玉積み上げて、
長距離の時には百円玉積み上げて
かけてたもんです。
テレフォンカードなんてもんが出来たのは、
ずっと後のことですからね。

携帯がなかった時代は、人との持ち合わせに
苦労しましたね。駅の改札とかハチ公前とか、
解りやすい所を待ち合わせ場所にしてね。
相手がなかなか来ないと、掲示板に
「先に行ってます。」とか書いてったりしてね。
デートの待ち合わせで何分まで待てるかで
その人の性格や本気度を感じる取ることも
ありましたよね。

メールなんてのも当然ありませんでしたから
文通でしたね。私は高校生の頃に、1年上の
先輩と滅茶苦茶頻繁にやり取りしてました。
家庭内で色々あった頃だったので、とても
救われましたよ。

私は家電で誰かにかけて長話するってことは
ありませんでしたが、思春期になると家電で
しょっちゅう交際相手と長電話して
月の電話代がとんでもない額になったと
親からお目玉食らう人もいたようですね。

携帯電話が普及したのは、私が30代後半に
なってからですよ。最初はお金持ちだけが
肩からでっかいの下げてやってましたね。
すぐにバッテリーがなくなっちゃってね。

ワープロがパソコンになってったのも
ほぼ同時期でした。その頃はインターネット
なんて言われても何のこっちゃ解らなかった
けど、今じゃどうですか、スマホなしには
生きられなくなっちゃいましたね。

この四半世紀の変化、凄まじいですね!
まかり間違って、もう四半世紀生きるような
ことになっちゃったら、
いつまで変化に着いていけますかね?

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