2016年8月15日月曜日

不戦の誓い Part3

71年前の今日、ラジオから流れる玉音放送で
「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ
共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(私は
日本政府から米・英・中・ソの四国に対して、
それらの共同宣言を受諾することを通告するよう
下命した。)という天皇の言葉を聞き、国民は
敗戦を知りました。共同宣言とはポツダム宣言
のことで、それを受諾したことを「無条件降伏」
と考えている人も多いようですが、宣言には
「全日本軍の即時無条件降伏」と書いてあり、
無条件降伏を迫られたのは国家でも国民でも
なく日本軍だった、というのが真実です。つまり
今日は「旧日本軍の敗戦記念日」と言い換える
ことも出来る訳です。

以下の資料は「世界戦争犯罪辞典」
(編・秦郁彦、文藝春秋)からのピックアップ
であることを、あらかじめお断りしておきます。

「ビハール号事件」(1944年3月)
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、
揚収した生存者60名を甲板で処刑。

「ババル島事件」(1944年10月~11月)
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による
住民虐殺事件。被害者数704名。

「ポンナチャック事件」(1943~1944年)
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模
な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人。

「デュエナス神父処刑事件」(1944年7月)
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強か
った神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。

「メリッソ村民虐殺事件」(1944年7月)
グアム東南部のメリッソ村民を日本軍が虐殺。
被害者数46人。

「トラック病院の捕虜生体解剖」(1944年2~7月)
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名が
ショック死。生き残った二人はダイナマイトで
爆殺された。さらに他の4名にぶどう状球菌を
注射し全員死亡させる。

「ティンブンケ事件」(1944年7月)
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名
の村民が日本軍に集団殺害された事件。

「パラワン島米兵捕虜殺害事件」(1944年12月)
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行
場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が
処刑される。

「父島人肉食事件」(1945年2月)
撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、
その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困って
いたわけではなかった。被害者数8名。

「九州大医学部生体解剖事件」1945年5~6月)
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、
輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生き
ながらえるかを実験した。

「マニラ市街戦での虐殺事件」(1945年2月)
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓
地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄で集団殺害。

「石垣島事件」(1945年4月)
石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。

「ランソン事件」(1945年3月)
仏印北部のランソンで仏兵捕虜を処刑。

「サンダカン死の行進」(1945年2~6月)
北ボルネオのサンダカンから260km離れた西海岸
へ移動させられた2000人の英豪捕虜の大部分が
飢えと病気のため死亡した事件。

「花岡事件」(1945年6月)
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で働かされ
ていた中国人労務者が起こした蜂起・逃亡事件。
見せしめの為100人が拷問後処刑される。

「ヤルート島民処刑事件」(1945年5月)
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民
21名を殺害。

「カラゴン事件」(1945年7月)
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民600名を
集団殺害した事件。

「オーシャン島住民殺害事件」(1945年8月)
島民140名に終戦を告げた後、全員を銃殺。

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