被害者。」というのが国際的な歴史認識だ。しかし
「原爆を落としたのは誰?」と聞けば「アメリカ」
と答えるように「虐殺をしたのは誰?」と聞けば
「日本」ということになります。私達は、被害者
としての記憶だけでなく、加害者としての記憶も
語り継いで行かねばならないと、私は思います。
以下の資料は「世界戦争犯罪辞典」
(編・秦郁彦、文藝春秋)からのピックアップ
であることを、あらかじめお断りしておきます。
「七三一部隊と細菌兵器」(1933~1945年)
石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的
に人体実験を行う。七三一部隊の記録によれば
1943年までの検体数は850体。1940年10月に
南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。
この攻撃後から2ヶ月間のペストによる死者
106名。ちなみに、日本は生物兵器を禁止した
ジュネーブ議定書を批准していない。
「真珠湾奇襲攻撃」(1941年12月)
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺とし
て原爆投下が正当化された。
「中立国タイとの交戦」(1941年12月)
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の
許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイ
の中立を侵犯する。
「香港戦で英軍捕虜の処分」(1941年12月)
香港戦における投降英軍兵士に対する殺害事件。
「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月)
バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ
られ、150名が処刑されたとされる事件。事件
自体でっち上げだとする説もある。
「アレクサンドラ病院事件」(1942年2月)
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサ
ンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。
被害者数200名。
「シンガポール華僑虐殺事件」(1942年2月)
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日
華僑粛清事件。被害者数6000人~2万人。
「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」(1942年2月)
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護
婦20名が日本兵により殺害された事件。
「ラハ事件」(1942年2月)
日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行
場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。
「バターン死の行進」(1942年4月)
フィリピン・バターン半島を攻略した日本軍が、
投降した米比軍7万人を炎天下で徒歩行軍させ
3万人近い死者を出した事件。
「マキン島米捕虜の処刑」(1942年8月)
日本軍が占領するマキン島へ奇襲上陸してすぐに
撤退し取り残された9名の米海兵隊員を処刑。
その中に米大統領の息子J・ルーズベルト少佐が
含まれていたという説もある。
「駆逐艦秋風虐殺事件」(1943年3月)
ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑
留者移送中の駆逐艦秋風が、洋上で全員を処刑。
「泰緬鉄道」(1942年1月~)
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入
され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。
「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、
生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し
救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、
揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
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