今はPCで作曲・編曲している私も
当時は楽譜に手書きで書いてました。
ピッコロからバス・打楽器まで15
パートほど書く訳で、放課後から寝る
まで必死に書いても8小節書ければ
いいほう。本番までに全9曲書くと
いうことは至難の業でした。
家庭のゴタゴタで私が辛かった時期に
支えてくれて、1年半交際してくれた
彼女に、私の方から春休みに入る前に
別れを告げました。共有する時間は
全く確保できないと考えたからです。
それでも、3年生になると次第に私は
授業をさぼるようになりました。昼間
はずっと家で譜面を書いて、部活が
始まる頃に登校する、そんな日が多く
なりました。下校するクラスメイトに
「おはよう!」と言いながら登校する
劣等生になりましたが、何故か先生方
は誰一人、私を咎めませんでした。
「武内君は自分のやりたいことを
やっているんだから、いいんだ。」
と授業中に言ってくれた先生がいた
という噂を聞きました。当時の若者は
無気力・無責任・無感動・無関心の
4無主義と揶揄されてましたから、
自分の意思で何かに打ち込んでる姿は
好感が持てたのかも知れません。
夏休みにはブラバン、コーラス部、
器楽部の合同合宿を福島県の
猪苗代湖畔で行いました。しばし
作曲から離れて練習に没頭しました。
しかし、それだけ打ち込んでも
本番間近になるまで全曲書き上げる
ことは出来ませんでした。2学期に
入ると演技の稽古に時間をとられる
ようになったんです。私は脚本・演出・
音楽の他に、出演者としても2役を
こなさなければなりませんでした。
本番前日、問題が起こりました。
杉並公会堂にはオーケストラピットが
ないので、舞台前に椅子を並べて
そこに楽団が座る、そこまでは想定
していたんですが、暗転になったら
真っ暗で譜面が見えないよな!公会堂
に問い合わせたらライト付きの譜面台
はないとのこと…。そこでブラバンの
部員が徹夜で譜面台用のライトを
作ってくれました。
そんな仲間の頑張りもあって
無事、公演は終了。もちろん内容は
素人高校生の作品ですから、論評に
値するものではなかったですが、
1年3組の諸君が歌って踊って
観客が拍手喝采してくれたことが
嬉しい思い出となりました。
終演後、私は放心状態で独り公会堂の
廊下を歩いていました。まるで映画の
スローモーションのように…。
先生方が私に握手を求めてきて
口々に言いました
「武内君、これで終わらせるのは
もったいない。どこかでもう1回
やったらどうだ!」と…。
今思えば、最上級の褒め言葉を頂いた
訳ですが、当時の私は
「冗談でしょ。こんなレベルのものを
再演する意味もないし、これ以上
みんなを引っ張っては行けない。」
祭りの後の虚脱感が私を襲ったのか、
その日、誰とどのように帰ったか
全く覚えていません。おそらく
どこかで打ち上げをしたんでしょう。
クオリティーがどうであれ
そんなことは関係ない。
誰も考えもしないようなことを
本気で考え、そしてそれを
大人の手を借りずにやり遂げたこと、
別々の部活やクラスの生徒達が
1つになって成し遂げたこと、
そこに価値があったんだと思います。
私の人生で最も印象に残る、
そして心の振幅の大きな出来事の
1つでした。何の打算もなく、
ただただやりたいことに没頭できる、
それが青春の特権なんでしょうね。
あのミュージカルに関わった
全ての人々に感謝するとともに、
共有した喜びを共に墓場まで
持って行きたいと願っています。
Because, that’s our life !
武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。
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