2016年11月27日日曜日

ガーシュウィン

ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年)
ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し
新しいアメリカ音楽を創り上げた作曲家。

1919年に歌曲「スワニー」がヒットし、
一躍人気作曲家となりました。
https://www.youtube.com/watch?v=CDHHMesF1ns
抜群の歌唱力で一世を風靡した
ジュディー・ガーランドさんが歌っています。

https://www.youtube.com/watch?v=xqGI8sSgXbE
ガーシュウィン本人のピアノ演奏!

1920年代以降は作詞家の兄と組んで、
ミュージカル作品をたくさん送り出しました。
彼らが創作し、後年までスタンダード・ナンバー
として歌われた作品は…

「私の彼氏(The Man I Love)」
https://www.youtube.com/watch?v=q2UCfj8LCts
映画「ニューヨーク・ニューヨーク」より
主演のライザ・ミネリさんが歌っています。
(ジュディー・ガーランドさんの娘さんです)
サックス奏者役はロバート・デ・ニーロさんです。

「アイヴ・ガット・リズム」などをはじめ、
おびただしい数に上ります。
https://www.youtube.com/watch?v=wnnASfbXIQk

1924年に「ラプソディ・イン・ブルー」を発表。
当時ガーシュウィンにとってオーケストラは
未知の領域で、ジャズとクラシックを融合させた
この作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的
な成功例として世界的に評価されました。
https://www.youtube.com/watch?v=SSKBNiAdlgg
私の敬愛する指揮者で作曲家の
レナード・バーンステイン氏が
ピアノ演奏している貴重な動画です!

その後、独学でオーケストレーションを学び、
いくつかの管弦楽作品を残しました。そのひとつ
「巴里のアメリカ人」(1928年)も有名です。
https://www.youtube.com/watch?v=jznT9p9I4C8
カンカン帽にステッキ持った男達の奇妙な
ダンスは「アメリカの田舎野郎が華の都パリに
のこのこやって来た」という風刺的表現でした。

オーケストレーションを学ぶために、ストラ
ヴィンスキーを訪ねると、クラシック作曲家と
しては異例の高収入で知られていたので、逆に
「どうやって高収入を得るのか?」と聞かれたと
いう噂が流れました。ストラヴィンスキーは晩年
のインタビューで、それは事実無根だと否定し
「でも、そういうことがあったら、楽しかった
だろうなあ。」と語っています。

ラヴェルに教えを請うた時も「あなたは既に一流
のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルに
なる必要はないでしょう。」と言われたとのこと。

黒人コミュニティの風俗をリアルに描いた
オペラ「ポーギーとベス」は1935年にオール
黒人キャストという意欲的な企画で初演され
ましたが、初演時は反響は得られませんでした。
後に評価が高まり、劇中歌「サマータイム」は
ポピュラーソングのスタンダードナンバー
として広く親しまれています。
https://www.youtube.com/watch?v=O7-Qa92Rzbk

「ピアノ協奏曲 ヘ調」(1925)
https://www.youtube.com/watch?v=MDxKtkkbE7w
私にとってガーシュインの魅力は
「交錯する明と暗」です。アメリカ人特有の
明るさの陰に潜む嘆き・不安・屈折を
垣間見るような気がしてならないんです。
それが顕著に表現された作品が、
この曲であると感じています。

彼は1937年7月に脳腫瘍のため
38歳9ヶ月の若さでこの世を去りました。

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2016年11月20日日曜日

古い言い回し

死語って言うか、もう、ほとんどの人が
使わなくなった言葉って、ありますよね。

「有難う。」って言う時に
「蟻が十なら芋虫ゃ二十、私ゃ十九で嫁に行く。」
って、わざわざ長々と語ったり

「とんでもない!」って言う時に
「飛んでも八分遅れて来たよ。」とか
「飛んでも八分、歩いて十分。」とか言ったり

「驚き!」だけでいいものを
「驚き、桃の木、山椒の木!」って言ったり

「大したもんだ!」って言う時に
「田へしたもんだ、カエルのしょんべん。」
って、これは私の母だけかも知れませんが…

「恐れ入りました!」って言う時に
「恐れ入谷の鬼子母神。」って言ったり

「ためしてガッテン」って番組がありますけど
「ガッテン」も言わなくなりましたね。昔の
時代劇だと「ガッテン承知の助!」なんて言って、
元気なあんちゃんが走り出すんですけどね。

たぶん若い人には
チンプンカンプンなんじゃないですか?
「チンプンカンプン」だって
チンプンカンプンかも知れないですよ。
「シッチャカメッチャカ」とか
「ハチャメチャ」「シドロモドロ」「ドギマギ」
なんてね、もう死語なんですか?

会社で若い人と話してて、悪い情報を聞いた時に
「アチャー」って言ったら「アチャー???……」
って、バカにしたような目で笑ってましたよ。
「アチャー」みたいな簡単な感嘆詞さえ
使わなくなっちゃったんですかね?

若い人がパソコンを梱包したいって言うから
「なに、これもう、お釈迦なの?」って聞いたら
「おしゃか???……」って、絶句してましたよ。
ひょっとして「お陀仏」も解かんないんですかね?

「平気だよ、何とも思わない。」って時に
「平気の平左」とか「屁でもない」とか
「役に立たない」ことを
「屁のつっぱりにもならない」って言ったり

「惚れる」って言葉自体、使われなくなったけど
「あの娘に惚れてるんだね?」って時に
「あの娘にホの字だね?」って言ったり

酒に酔って「ヘベレケになる」「虎になる」
泥酔すれば「大虎になる」
手持ちの金がなくなると「スカンピンになる」
「スッテンテンになる」「オケラになる」
なんて言ったしね。

「すごく」とか「たいそう」みたいな形容詞で
「すこぶる」ってのも、良く使いましたよね。
「今日は、すこぶる快調だ!」とか
「彼は、すこぶる頭の切れる奴だ。」なんてね。

事件起こした女性芸能人の陰に
自称〇〇なんて亭主がいると
「どうせ与太者だろ?」って私は言うんですが
「そんな風に言うの今時、あんただけよ。」
って、妻に言われますよ。

そんな妻はおキャンな性格なんです。小町娘と
言われるほどの器量良しじゃありませんが、
私のようなスットコドッコイには
釣り合いのとれた女なんでございます。

to be continued…

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2016年11月11日金曜日

禁煙がくれた自信

私は明日、満60歳になります。
と同時に、禁煙10周年を迎えます。
50歳の誕生日に禁煙したんです。
その理由は…
 
1, 高校のブラバンの同窓会に行ったら、
       ほとんどの人が吸ってなくて、何だか
       自分だけ時代に取り残されてる感じがした。
2, 急に長生きしたくなった。50歳を折り返し
       地点として、もう50年生きよう!って
       決めた。このまま吸ってたら、70歳頃に
       肺がんで死ぬような気がした。
3,月1万円以上かかる煙草代がもったいない。
      健康に良いならまだしも、健康を害するため
      に金使ってる場合じゃない。

だから明日は、10歳の誕生日なんです。
ああ、でも、もう10歳!
そろそろ色気づいてくるお年頃です。

2014年10月29日のブログ
「セルフ・コントロール」で
ダイエットをするのに、得意技の
『記憶の塗り替え』をするって書きましたが、
その基礎となったのが禁煙だったんです。

煙草は習慣性があると言われてますが、
それは身体が求めてるからなのか、
脳が求めてるからなのか、と自らに問い、
脳が求めてるからなんだ、と勝手に結論づけ、
『吸ってる自分』から『吸わない自分』への
転換を試みたんです。

食後に煙草を吸ってる自分
コーヒーを飲みながら煙草を吸ってる自分
車に乗ったら、まず煙草に火をつけてる自分
そういう記憶が染みついてるから
思い出しちゃうんだと。これを綺麗さっぱり
消し去らねばならない。それには、
食後に煙草を吸ってない自分
コーヒーを飲みながら煙草を吸ってない自分
車に乗っても煙草に火をつけない自分の記憶に
塗り替えてしまうのが一番!ってことに
気づいたんです。偉いでしょ?

禁煙初日は、
片時も煙草のことが頭から離れませんでしたよ。
1日中、吸いたい気持ちと戦ってました。
「何とか3日、持ちこたえよう!」
と自分の中のスローガンにして、
1週間経ったら
「3週間頑張れば何とかなる!」って思って、
1ヵ月経ったら「3ヵ月頑張れば完璧になる!」
1年経ったら「じゃあ3年ね!」なんてね、
『3』という数字に験担ぎして頑張りましたよ。

3年間ぐらいは、煙草吸っちゃってる夢を
たまに見ましたが、ここ数年は、そんな夢も
見なくなりました。身体もいたって健康です。
何より、健康オタクを楽しんでますから、これで
早死したら運命と諦めるしかありませんよ。

私は禁煙をしたお陰で、自分の意思で
記憶の塗替え(セルフ・コントロール)が
出来るのだという自信を持ちました。
禁煙に限らず、意思さえ持てば何だって、自分を
コントロールできるという自信を持ちました。
これは素晴らしいことです。

この経験を糧に、
これからも色々なことに挑戦して行きたいです。

Because, that’s my life !

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2016年11月6日日曜日

未知なるもの


【還暦を迎えて Part3】

私は最近、つらつら思っています。

物心ついて、青春時代を夢中に過ごして、
結婚して、子どもが生まれて、懸命に働いて、
楽しい経験がいっぱい出来たけど、
それと引き換えに、
大事なものを失ったんじゃないか…。

未知なるものの多かった頃は
希望が不安をかき消してくれましたよ。
余計なこと考えなくても
普通に生きてるだけで楽しかったです。
しかし、子ども達が2人とも独立して
人生の経験ほとんどに「済」マークがついて、
無条件にワクワクするような
未知なるものが無くなってしまいましたね。

その上、将来不安が頭をもたげて来ましたよ。
最後に残る未知なるものは、死だけなのかと
ちょっと淋しい気持ちになったりもします。
そんな不安を振り払うように
ブログ・FaceBook・ミュージックビデオ・
手話・ケアマネの勉強…
『休む間もなく活動する自分』を
演じ始めていました。もしかしたら
未知なるものを求めていたのかも知れません。
でも未だに「これ!」ってものが見つかりません。

「孫は目に入れても痛くない」てなこと言って
メロメロになっちゃう爺さん婆さんがいますが、
私はそうならないって、決めてるんですよ。
なんか、人のフンドシで相撲とるみたいで
嫌なんです。生涯、自前の夢を追い求めて
生きて行きたいんですよ。孫の成長ってのも、
未知なるものに違いはないですけどね…

やっぱり私は
児童・青少年向けのミュージカルを創って
観客とコミュニケーションするのが
一番幸せなのかも知れません。

ケアマネの資格取って、
手話通訳の資格取って、
東京パラリンピックでボランティアして、
それでも何か物足りないものを感じたなら、
ブログ・ミュージカルでも始めようかな。
物語を描いて、
歌を描いてYouTubeにして貼り付けて、
そんなものをブログで連載して
皆さんに鑑賞してもらおうかな。

Because, that’s my life !

【お知らせ】
来週末は旅行に出かけるため、
次回の投稿は少し早めの
11月11日(金)夜10時頃に致します。
皆様、お楽しみにして頂ければ幸いです。

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2016年10月29日土曜日

この老人のように

【還暦を迎えて Part2】

W・S・クラーク(1826~1886)
アメリカ合衆国の教育者。
化学、植物学、動物学の教師。
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。

このクラーク像には「少年よ大志を抱け」
Boys, be ambitious. と書かれています。
しかし、この言葉には続きがありました。

アメリカで農業大学を設立し、学長として充実
した日々を送っていたクラーク氏のもとに、日本
から使者が訪れ、こう言いました。「北海道開拓
の為、日本で酪農を教えてほしい。」学校関係者
がみな反対する中、クラーク氏は大きなリスク
を承知のうえで、日本行きを決意しました。
その決意の背景にあった体験とは…

南北戦争で、彼は奴隷解放の理想に燃え、教え子
と共に義勇軍として参加しました。しかし、多く
の教え子が命を落としてしまいました。荒廃した
国土と失意の若者を立ち直らせる為に、自分に
何が出来るかと考え、彼は若者達に農業を教える
ことを決意したんです。

日本は戊辰戦争があった直後だと聞かされた
クラーク氏は、その時の自分の体験と重ね合わせ
たんでしょう。2年間という日本からの要望
でしたが、「1年で2年分の仕事をして戻る。」
と言って旅立ちました。

クラーク氏を待っていたのは、武家出身の2男や
3男で、中には幕府方に加担した賊軍出身者も
いました。彼らは元武士のプライドから、農業を
行うことに鬱積した気持ちを抱き、酒を飲んでは
暴れる25~26歳の若者達でした。そんな彼らに、
クラーク氏は体当たりで向き合いました。

彼は大のワイン好きでしたが、母国から運んだ
ワインボトルを全て割り、自分は禁酒すると宣言
しました。そして、校則の書かれた紙を破り捨て、
生徒達に言いました。

「校則はいらない。紳士たれ。」

ある日、生徒達と屋外で植物観察をしていると、
木の高い所に珍しい苔を見つけました。すると
クラーク氏は、木の前で四つん這いになり、自分
の背に乗って苔を取るよう生徒に命じました。
生徒達は、そんなクラーク氏を心から慕うように
なりました。

クラーク氏の帰国する日が迫る中、西南戦争が
始まりました。南北戦争での悲しい体験から
生徒達に生きのびる術を身につけさせたいと、
クラーク氏は軍事訓練施設の建設を進めました。
それが今の観光名所「札幌市時計台」です。
クラーク氏は、生徒達との別れの時、1人1人と
握手した後に、こう言いました。

「少年よ大志を抱け、この老人のように。」
    Boys, be ambitious like this old man.

「少年よ大志を抱け」という言葉だけなら、
勇気づけられるのは若者だけかも知れませんが、
「この老人のように」と続くことで、
私のような年寄りでも涙の出るほど感動し、
勇気づけられます。

素敵なプレゼントを頂きました。
そう言える自分でありたいと思います。

Because, that’s my life !

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2016年10月23日日曜日

最上のものは いつ来たる?

【還暦を迎えて Part1】

『花子とアン』は、2014年(平成26年度)
上半期に放映されたNHK連続テレビ小説です。
『赤毛のアン』の日本語翻訳者である村岡花子氏
の半生を原案としたフィクションで、初回から
最終回までの平均視聴率が22.6%を記録。
『あまちゃん』(20.6%)や『梅ちゃん先生』(20.7%)
『ごちそうさん』(22.4%)を超え、朝ドラの
過去10年で最高の記録となりました。

「最上のものは なお後に来たる」

主人公ハナの卒業式で、ブラックバーン校長が
生徒へ向けて述べたスピーチの一節です。
以下、ブラックバーン校長のスピーチ全文と、
ハナが訳した日本語訳です。

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My girls!
Grow old along with me, the best is yet to be.

わたしの愛する生徒たちよ。我とともに老いよ。
最上のものは なお後にきたる

If some decade later,
you look back on your time with us here
and you feel that these were the happiest
days of your life, then I must say
your education will have been a failure.

何十年か後に、皆さんがこの学校生活を振り返り
「あの時代が一番幸せだった。楽しかった。」と
心の底から感じるのなら、私はこの学校の教育が
失敗だったと言わなければなりません。

Life must improve as it takes its course.
Your youth you spend in preparation because
the best things are never in the past, but
in the future.

人生は進歩あるのみ。
若い時代は準備の時であり、最上のものは
過去にあるのではなく、将来にあるのです。

I hope that you pursue life,
and hold onto your hope and your dream
until the very end of the journey.

私は、皆さんが人生の旅路の最後まで、
希望と理想を持ち続けて行けることを
願っています。

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私にも、最上と思える日々がありました。
手創りミュージカルに没頭した高校3年生の頃。
行方知れない道に踏み込み、
レッスンに明け暮れた演劇学生の頃。
全国の子ども達に芝居を観せていた日々…。
どれもこれも、私にとってかけがえのない
人生の1ページです。

私は長男が生まれ、長女が生まれ、
家族4人で過ごしている時に、
妻にこう言ったことがあります。
「今が人生で一番幸せかもね。」
妻は、私の言葉がとても印象的だったらしく、
折りに触れ、そのことを口にします。
「悔しいけど、あれって、当たってたね。」

私は3週間後に60歳、還暦を迎えます。
最上のものが、まだこの先に見つかるかどうか
自信はありません。でも、挑戦あるのみですね。

Because, that’s my life !

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2016年10月16日日曜日

無垢の優しさ

子ども心が抜け切れないことを
『ピーターパン・シンドローム』って言いますね。
私は、ちょっと、それっぽいところがあるかな
って、ずっと思ってました。でも、ネットで
ある少年の話を知って「それっぽい」なんて
思ってるのは大間違いで、子どもの純真さに
憧れてるだけだなって思い知らされましたよ。

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医師は、重体に陥った5歳の少女の命を守ろうと
必死でした。少女を救うためには輸血が必要でし
たが、O型の血液が足りず、医師はやむなく
少女の双子の兄からの輸血を提案しました。

妹に血液をあげる気があるかと、医師が少年に
尋ねると、少年は躊躇していたようでしたが、
妹の命を救うためには他に方法がないのだと
説明すると、納得してくれました。

輸血を受け、少女の顔色が蘇ってきたので、
医師はホッと胸をなでおろしました。
輸血が済むと、この勇気ある少年は突然真剣な
面持ちになり、医師にこんな質問をしました。

「それで、僕はいつ死ぬの?」

この少年は、輸血によって妹のために自分の命を
捧げるつもりだったのです。あの躊躇は、それを
決断するための躊躇だったのです。

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子どもの純真さって、心打たれますね。
私達大人には真似ができません。
溺れている人を救おうとした人が、
結果として自分の命を落としてしまう話は
毎年のように報道されますが、
死を決断して行うわけではありませんもんね。

でも、真似はできないにしても
学ぶことはできます。
人を救うには優しさが必要ですよ。
私達ヘルパーにとって介護や支援は職業ですし、
この話のように差し迫った命の危機を救う
仕事ではありませんが、
『優しさ』は基本中の基本ではないでしょうか。

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