【還暦を迎えて Part2】
W・S・クラーク(1826~1886)
アメリカ合衆国の教育者。
化学、植物学、動物学の教師。
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。
このクラーク像には「少年よ大志を抱け」
Boys, be ambitious. と書かれています。
しかし、この言葉には続きがありました。
アメリカで農業大学を設立し、学長として充実
した日々を送っていたクラーク氏のもとに、日本
から使者が訪れ、こう言いました。「北海道開拓
の為、日本で酪農を教えてほしい。」学校関係者
がみな反対する中、クラーク氏は大きなリスク
を承知のうえで、日本行きを決意しました。
その決意の背景にあった体験とは…
南北戦争で、彼は奴隷解放の理想に燃え、教え子
と共に義勇軍として参加しました。しかし、多く
の教え子が命を落としてしまいました。荒廃した
国土と失意の若者を立ち直らせる為に、自分に
何が出来るかと考え、彼は若者達に農業を教える
ことを決意したんです。
日本は戊辰戦争があった直後だと聞かされた
クラーク氏は、その時の自分の体験と重ね合わせ
たんでしょう。2年間という日本からの要望
でしたが、「1年で2年分の仕事をして戻る。」
と言って旅立ちました。
クラーク氏を待っていたのは、武家出身の2男や
3男で、中には幕府方に加担した賊軍出身者も
いました。彼らは元武士のプライドから、農業を
行うことに鬱積した気持ちを抱き、酒を飲んでは
暴れる25~26歳の若者達でした。そんな彼らに、
クラーク氏は体当たりで向き合いました。
彼は大のワイン好きでしたが、母国から運んだ
ワインボトルを全て割り、自分は禁酒すると宣言
しました。そして、校則の書かれた紙を破り捨て、
生徒達に言いました。
「校則はいらない。紳士たれ。」
ある日、生徒達と屋外で植物観察をしていると、
木の高い所に珍しい苔を見つけました。すると
クラーク氏は、木の前で四つん這いになり、自分
の背に乗って苔を取るよう生徒に命じました。
生徒達は、そんなクラーク氏を心から慕うように
なりました。
クラーク氏の帰国する日が迫る中、西南戦争が
始まりました。南北戦争での悲しい体験から
生徒達に生きのびる術を身につけさせたいと、
クラーク氏は軍事訓練施設の建設を進めました。
それが今の観光名所「札幌市時計台」です。
クラーク氏は、生徒達との別れの時、1人1人と
握手した後に、こう言いました。
「少年よ大志を抱け、この老人のように。」
Boys, be ambitious like this old man.
「少年よ大志を抱け」という言葉だけなら、
勇気づけられるのは若者だけかも知れませんが、
「この老人のように」と続くことで、
私のような年寄りでも涙の出るほど感動し、
勇気づけられます。
素敵なプレゼントを頂きました。
そう言える自分でありたいと思います。
Because, that’s my life !
名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新
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