2018年7月15日日曜日

コンテスト

ミス・アメリカ大会が水着やイヴニングドレスの
審査をなしにするらしいですね。セクハラと戦う
Me too 運動の広がりもあり、女性を外見や容姿
で判断しないって考え方にするんだそうです。
そのかわり、審査員の質疑を受け、知性や才能や
社会的な影響などを審査するんだそうです。
ってことは、知性や才能や社会的な影響で審査
するなら、女性差別にはならないんでしょうか。
「あたしゃバカだけど、脱いだら凄いのよ。」
って自負する方がいたとしても、決して
評価されない世の中になって行くんでしょうか。
格差社会ですかね。

そうすると、ミスコンは
会社の面接みたいになるのかな?
スーザン・ボイルさんみたいな
ニュースターも現れるかな?
でも、外見や容姿で判断しちゃいけないなら
顔や脚も隠さなきゃいけませんよ。
メチャクチャ魅力感じちゃいますからね。
人民服みたいのを着て、覆面して出なきゃね。
女性ボディービルダーなんてのも
見事な肉体ではなく、見事な肉体を
作り上げるに至った苦労話を披露して、
その精神力を評価してもらうしかないですね。
セクハラに反対する運動の本質が男女平等を
標榜するものなら、男性のコンテスト出場者も
人民服・覆面で出場しなきゃいけませんね。
女性にも、男性を外見や容姿で判断しちゃう人が
いるかも知れませんからね。

この話には
1, そもそも人間はなぜ容姿を評価したり
  アピールしたりするのか
2,そもそもコンテストの目的は何か
  っていう2つの問題があるんじゃないですか?

そもそも女性はなぜ化粧やファッションや髪型
に興味を持ち露出度の高い服やボディーライン
の出る服を着るんでしょうか。なぜスクール水着
でなく、ビキニを着るんでしょうか。花が綺麗な
花びらで虫を誘い受粉するように、種を残す
ためにDNAに組み込まれた本能なんでしょうか。
なぜイケメンに憧れるんでしょうか。容姿の
良い子を産みたいという本能なんでしょうか。
いずれにせよ、人間は否応なく人を容姿で
評価してしまうし、自分も容姿をアピールして
しまうものなんじゃないですか?

ミス・アメリカの最初のスポンサーは水着の
メーカー。要は販促イベントだった訳ですね。
ミス・インターナショナルはマイヤミビーチの
人集め。芸術のアワードは芸術家が芸術で飯を
食って行けるように世の中にアピールし業界を
活性化する狙いがあるんじゃないですか?
つまり、コンテストは人を評価するのではなく、
人を評価するような演出をして行う業界活性化
のための宣伝活動に過ぎません。そこに女性差別
や性的嫌がらせの問題を持ち込んでちぐはぐな
審査方法に変えるのは、知的には見えませんね。
むしろコンテスト自体がバカバカしいんだから
止めようってんなら溜飲が下がるってもんです。

音楽は外見を評価するものじゃないけれど、
もし1800年代にアワードがあって
メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、
リスト、ワーグナー、ヴェルディなどといった
名だたる作曲家がこぞって出場して、
審査員と称するお歴々に自分の音楽を批評され
順位を決められる…なんてことを想像してみて
下さい。現代社会で当たり前のように行われて
いることがいかにバカバカしいことかと
お気づきになるんじゃないでしょうか。

私は絶対的基準の存在しない分野において
他人が他人を評価すること自体、ナンセンスだと
思っています。評価することも、されることも
拒否したいです。

名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新

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