2018年7月1日日曜日

拝◯主義

以前、横綱白鵬関の優勝インタビュー中に
「勝てば何でもいいのか!」って
野次が飛んだことありましたね。
立ち会いから引いたり、張り手したり、
取り口が横綱らしくないって批判ですね。
先日のサッカーのボール回しを見て
「勝ち上がれば何でもいいのか!」って
野次ってるオヤジも結構いたかも知れませんね。
かつて「ヒルズ族」がもてはやさせる一方で
「拝金主義」なんて言葉も登場し、
「儲かりゃ何でもいいのか!」ってな批判が
オヤジの間に渦巻いてたように思います。
王・長嶋世代の私などは、個人記録に執着して
いつまでも惨めな姿をさらすスター選手に
「数字さえ伸びりゃあ何でもいいのか!」
って感じで、冷ややかに見てましたよ。
アマチュアなら勝ちにこだわったり
記録にこだわったり、それもいいでしょう。
だけど、プロって何のためにあるんです?
観衆に希望や感動を与えて、その対価として
高額な報酬を得てるんでしょ?

そこで皆さんに質問します。
最後まで死力を尽くしたが力及ばず
同点に出来なかったセネガルと、
同点でも自力優勝が出来るのに
それを狙わず自ら負けた日本と、
1,どっちが 希望や感動を与えたでしょう?
2,どっちが「恥知らず」だったでしょう?

「恥知らず」って言葉は不思議な言葉で、私、
誰でもその人なりに恥の概念を持ってると
思うんですよ。ただ、人によって価値観が
真逆の場合があるのに、一方の概念だけで人を
批判して言うから「恥知らず」って
言葉になって出ちゃうんだと思うんですね。
要は、何を恥と思うかです。
もしセネガルが1点取って日本が予選敗退
してたら、西野監督は「恥知らず」の烙印を
押されて、歴史にその名を残したでしょう。
評論家も野次馬も、勝てば「あれは有りだよ。」
って言うけど、負ければ「あれは無しだよ。」
って言うかもしれませんよね。
日本が1点取る確率より
セネガルが1点取れない確率のほうが高いと
プロならではの鋭い読みだったのか、
一か八かの賭けだったのか知りませんが、
大きなリスクを承知でセネガルの負けに賭けた
度胸は凄いですね。ただし、その結果は
サッカーに勝ったんじゃなくて
丁半博打に勝ったようなもんです。
じゃあ、西野監督は賭博師ですか?
いいえ、サッカーの監督です。しかもプロです。
少年少女に希望や感動を与える存在です。

かつて「美しい日本」という言葉を連発して、
影で行政を私物化してた政治家が、
最近は全くその言葉を口にしなくなりました。
ひょっとしたら、さすがに恥ずかしくて
言えなくなっちゃったのかも知れません。
私は「美しい〇〇」とか「〇〇の日本」とか、
そういう紋切り型の標語は嫌いですけど、もし
私が日本人として誇りに思いたいことは何か
と問われれば「真摯な態度で臨まない」ことを
「恥ずかしい」と感じる心じゃないかなって
思います。

力のある人、ない人、
努力の報われる人、報われない人、
ポカの多い人、少ない人、
人間ですもん、色々ありますよね。
でも、結果の良し悪しより
恥ずべきことがあると、私は思うんです。
真摯な態度で臨まない、私にとってそれは、
最も恥ずべき態度です。
じゃ、真摯って何?ってことになりますね。
「真面目に、ひたむきに、正直に、熱心に、
一心に事に当たる様。」ネットで調べると
そんなことらしいです。じゃあ真面目って何?
とか言い出すと切りがありませんが、
真正面から正々堂々と向き合う
ってなことなんだと思いますよ。

私は、日本人が何だかだんだん
拝◯主義的な価値観になっているような
気がしてなりません。
勝つ、儲かる、数字が伸びる、
そういう結果さえ得られれば、プロセスが
どうであれ、嬉しい感情が湧く…
真摯な態度なんてものに
価値観を見いだせない…

皆さんは少年少女が
姑息なまねをしてでも結果を出す姿に
希望や感動を感じてほしいですか?
たとえ結果に結びつかずとも
最後まで正々堂々と挑む姿に
希望や感動を感じてほしいですか?

名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新

0 件のコメント:

コメントを投稿