2018年5月27日日曜日

彼の死を活かす

「アマはプロセスが大事。
プロは結果が大事。」とか
「チャレンジこそ生きる証」などと考えて
これまで生きて来た私ですが、
その考えを覆す出来事が起こりました。

エベレスト登頂を目指したイギリスの登山家
ジョージ・マロリーさんがインタビューで
「なぜエベレストに登りたいのか?」と問われ、
それは愚問だと言いたげに
「そこにエベレストがあるから。」
と答えたのは今から90年以上前のこと。

日本の35歳の登山家
栗城史多(くりき・のぶかず)さんが、
現地のガイドや日本人カメラマンが死亡する
という経験をしたり、自らも凍傷のため
両手指9本を切断する経験をしながらも、
先日、8度目のエベレスト登頂に挑戦し、
惜しくも帰らぬ人となりました。
何度も死と隣り合わせの過酷な登山を経験して
いるにもかかわらず、彼は今回、
単独・無酸素・南西壁という、常識では
考えられないような条件で望んだそうです。
たった1人で、酸素濃度が平地の3分の1の山を
酸素ボンベを使わず、最も難しいと言われる
南西壁からの登頂を目指したんですね。

友人の登山家、野口健氏は
「彼にとって(登山は)
挑戦することに意味があったんだと思う。」
とコメントしました。
死と隣り合わせの挑戦に
生きる意味を見出していたんだとしたら、
エベレストの雪の中で力尽きたのは
彼として本望だったということでしょうか…

私はこの報道を見て、はたと目が覚めました。
近年のモヤモヤ感が一瞬にして吹き飛びました。
プロもアマも関係ない、
結果もプロセスも関係ない、
チャレンジは「生きる証」ではなく
「生きる意味」だったんですね!

もう何も迷うことはありません。
私は「これをやりたい。」と思ったことを
迷わずに、力いっぱいやって行きます。
一切の理屈も言い訳もなく、損得もない、
砕け散っても本望だと思えるような
純粋な生き様を体現します。
そうして私なりに、彼の死を活かしたいです!

Because, that’s my life !

名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新

2018年5月13日日曜日

主導権


私は日常生活の色んな場面で
いちいち仕切る方じゃないんです。
夫婦でも、相手が出て来れば引いちゃうし、
会社や、友人関係もそうです。
研修のグループワークでも、
率先して仕切ろうと思えば仕切れますが、
勝手に仕切り出す人がいればお任せします。
どうでもいいこと、と言ってはなんですが、
誰がやってもいいことなら、仕切りたい人に
仕切らせてあげた方が平和だからです。

でも、肝心なことは常に
自分に主導権がなければならない
という気持ちで生きて来ました。
特に仕事においてそれが顕著なので、
私は大企業の社員や公務員には
向いてなかったと思います。
縦社会も好きじゃないし、
人の顔色をうかがって生きるのも、
権力におもねるのも、既存の風習を踏襲するのも
好きじゃない。自分の実力を磨き、
自分なりに工夫して結果を出し、
周囲の人々に喜んでもらうのが好きでした。

労働者の立場は弱いものです。けれども私は、
経営のことはそっちのけで、徒党を組んで
権利ばかりを主張するより、自分の努力で
自分の価値を高めて行く方が好きでした。

お山の大将になりたいとも思いませんでした。
縦社会が嫌いだというのも理由の1つだった
でしょうし、権力志向も、金銭欲も薄く、
そんなことに時間と労力を費やすぐらいなら
自分を磨くことに費やしたかったんです。

40歳を過ぎてからは、自分の仕事の将来性
5年~10年先ぐらいまでは見通すように
なりました。10年後に会社はどうなっている
べきか、自分はどうなっているべきかと考え、
必要なスキルを身につけたり、社長に提案し
(私の勤めた会社に大企業はなかったので、提案
する相手は常に社長でした)了承が得られれば
改革を断行し、得られなければ見切って会社を
移籍することもありました。私の直言は、会社の
存亡をかけた重要な提案だったからです。
その意味を解せぬ経営者と運命を共にせねば
ならない義理はありませんのでね。

そういう私だけに、
芝居を一生の仕事には出来ないと悟った時の
ショックは大きかったです。出口のない暗闇に
突き落とされた感がありました。幸運なことに
介護が私にチャンスを与えてくれました。

しかしそれでも、
私の信念は変わりませんでした。
私が会社を必要とする以上に会社が私を必要と
する、そうでなければ私の存在価値はない。
居るも辞めるも決めるのは会社でなく私、
そういう関係を作るために、人の倍の仕事が
出来るよう、努力をしました。

ですから、主導権は常に私にあるんです。
なぜなら、私の人生は私のものだからです。

(最後は Back to the future の決めゼリフ
 みたいになっちゃいましたね!)

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2018年5月6日日曜日

とりあえず決めました

自分が演劇人でなくなってからというもの、
なんか自分の中に芯がなくなっちゃったと言うか、
生きる充実感が足りないと言うか、空虚な風が
心の中を吹き抜けてるような気がするんですよ。
これはなんなんだ?って、考えてみますか…

高校2年生の年末に演劇人になることを決め、
大学ではなく演劇学校へ進学することを決め、
1年間ミュージカルの創作に没頭し、
3年生の秋に文化祭で発表したのが、
私の演劇人としての原点です。
理屈抜きに、やりたいことをやった思い出として
あの経験以上のものは、未だにありません。

シェイクスピアの「ベニスの商人」という大作を
1時間40分のミュージカルに仕上げる…
今思えば、何でそんなこと考えたのか不思議です。
高校生にとって、滅茶苦茶高いハードルですよ。
1グループの持ち時間が20分だったので、
ブラバン・器楽部・コーラス部・演劇部だけでは
足りず、ダンス部に声かけたら断られ、1年3組
というミュージカルに何の関わりもない、ただ
ブラバン部員が多いクラスというだけの理由で
参加してもらい、無理矢理1時間40分を確保
しました。大学受験を控えた同学年生に負担を
かけぬよう、私は脚本・作詞・作曲・編曲・演出
を受け持った上に、舞台で2役をこなしました。
当時はソフトシンセなんてものはなかったので、
M-25まであるナンバーのスコアを手書きで書き、
出来た順に稽古し、それが本番ぎりぎりまで
続きました。卒業生が指揮をして下さったり、
仲間達も最後までベストを尽くしてくれました。
やり終えた後の脱力感と言ったら、それはもう
例えようのないものでした。

なぜ、あんなことを? 理屈なんてないです。
そこに山があったから登ったんですよ、きっと。
誰もやったことない、やれると思わない、
やりたいとも思わない、でも俺はやるよみたいな、
そんな気持ちが強かったのかも知れません。

演劇人となり、観客と心通わす幸せを味わい、
最後の10年間は念願の創作ミュージカルを
自分の作曲で4作品手掛けることが出来ました。
高校の文化祭の体験に次ぐ、幸せな時間でした。
しかし、仕事量は右肩下がりに減り、一生の仕事
として続けていくことは出来ないと悟る日が
来ました。私は鬱状態になり、出張先のホテルで
トイレ以外はベッドから出られなくなりました。
「死んだら楽になれるかな…」そんな弱気が頭を
よぎった時、昔の演劇仲間が「介護なら感動する
ほど仕事があるよ!」って教えてくれました。

私はすぐにヘルパーの資格を取り、
3年後に介護福祉士、5年後にケアマネの資格を
取ると決めました。そして、その通りになりました。
今は手話通訳者を目指して頑張っています。
介護で出会った方々と共にミュージックビデオを
創作し、YouTubeにアップするようになりました。
自分のブログも始めました。どれもこれも、
年寄りの私にとってハードルの高いことでしたが、
若い友人に助けられ、クリアして来られました。

次々に目の前にハードルを置いて、
それを乗り越えて行くことで、私は鬱の恐怖から
逃れようとしているのかも知れません。それでも
正直言って、山を登っているような充実感は、
今の私にはありません。

でも私は、必ず山を登り始めます。
70歳過ぎたら、始めます。それまでは、
目の前のハードルを乗り越えることに
集中しようと思います。

とりあえず、今、そう決めました。

Because, that’s my life !

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2018年5月1日火曜日

ただ、ただ、悲しい…

今日の午前中に、あるヘルパーさんから
「山下さんが心肺停止で救急搬送された。」
との知らせがありました。そして午後、
お亡くなりになったとの知らせがありました。

山下礼(ペンネーム)さんとは、
みんなのミュージックビデオを
共に創作してきた仲です。

第2弾「幼き日々よ」作詞
第3弾「希望の星」作詞
第4弾「パワフル」英訳
第5弾「奈落」作詞・英訳
第6弾「小舟」作詞

第6弾の英訳もお願いしたんですが
「できない」とのことでした。
理由はおっしゃいませんでしたが、
たぶん体調がすぐれなかったんだと思います。

私は4年前に、ある訪問介護の会社に入社し、
間もなく山下さんの支援を受けもつように
なりました。山下さんは、新入りのヘルパーに
必ず出身地や生年月日を聞く方でした。
「誕生日が2日違いだね。」と山下さん。
「ご縁ですかね。父と同じ日ですよ。」と私。
「そう…。生まれて来ちゃったんだよね…。」
まだ新米ヘルパーだった私は、山下さんのその
「生まれて来ちゃったんだよね…。」という
言葉が胸に突き刺さり、私の介護者としての
モチベーションを頂けた思いがしました。
「生まれて来て良かったと思ってほしい…。」
そんな思いもあって、ミュージックビデオの
作詞や英訳を依頼するようになりました。

山下さんはALSという難病と向き合って生きて
いらっしゃいました。ほぼ四肢麻痺の状態で、
携帯やパソコンを指先で操作するのがやっと
でした。事業所の都合で私は1ヵ月後に
山下さんの担当から外れましたが、創作の仲間
であることに変わりはありませんでした。

ほんの1ヶ月前に私が会社を移籍すると、
その会社でも山下さんの支援をしていました。
そのことを山下さんに知らせ
「ご縁がありますね。」と伝えると、
「道端の草花やお地蔵様にさえ、ご縁を感じる
今日この頃です。」と返事が返って来ました。

そして2週間前、あるヘルパーさんから
山下さんの容態が芳しくない旨の報告があり、
私は「そろそろ創作を再開したいです。詩を
描いて頂けませんか?」とメールを送りました。
「ありがとう。体と相談しながら書きます。」と
返事が来ました。けれども、
今日の知らせとなってしまいました。

山下さんは、ご自分の希望で
延命措置を何一つされていませんでした。
ご自分で作詞したミュージックビデオの中でも
「希望の星」が大のお気に入りでした!

第2弾「幼き日々よ」
https://www.youtube.com/watch?v=wF-mcSDi2DY&t=9s

第3弾「希望の星」
https://www.youtube.com/watch?v=uPgvEZR2CHc

第4弾「パワフル」
https://www.youtube.com/watch?v=yIIMFt_W5m4&t=23s

第5弾「奈落」
https://www.youtube.com/watch?v=f6EJgJ476KI

第6弾「小舟」
https://www.youtube.com/watch?v=O_sRwvqjDTg

山下さん、希望の光、見つけられたかな…
ただ、ただ、悲しいです…