自分が演劇人でなくなってからというもの、
なんか自分の中に芯がなくなっちゃったと言うか、
生きる充実感が足りないと言うか、空虚な風が
心の中を吹き抜けてるような気がするんですよ。
これはなんなんだ?って、考えてみますか…
高校2年生の年末に演劇人になることを決め、
大学ではなく演劇学校へ進学することを決め、
1年間ミュージカルの創作に没頭し、
3年生の秋に文化祭で発表したのが、
私の演劇人としての原点です。
理屈抜きに、やりたいことをやった思い出として
あの経験以上のものは、未だにありません。
シェイクスピアの「ベニスの商人」という大作を
1時間40分のミュージカルに仕上げる…
今思えば、何でそんなこと考えたのか不思議です。
高校生にとって、滅茶苦茶高いハードルですよ。
1グループの持ち時間が20分だったので、
ブラバン・器楽部・コーラス部・演劇部だけでは
足りず、ダンス部に声かけたら断られ、1年3組
というミュージカルに何の関わりもない、ただ
ブラバン部員が多いクラスというだけの理由で
参加してもらい、無理矢理1時間40分を確保
しました。大学受験を控えた同学年生に負担を
かけぬよう、私は脚本・作詞・作曲・編曲・演出
を受け持った上に、舞台で2役をこなしました。
当時はソフトシンセなんてものはなかったので、
M-25まであるナンバーのスコアを手書きで書き、
出来た順に稽古し、それが本番ぎりぎりまで
続きました。卒業生が指揮をして下さったり、
仲間達も最後までベストを尽くしてくれました。
やり終えた後の脱力感と言ったら、それはもう
例えようのないものでした。
なぜ、あんなことを? 理屈なんてないです。
そこに山があったから登ったんですよ、きっと。
誰もやったことない、やれると思わない、
やりたいとも思わない、でも俺はやるよみたいな、
そんな気持ちが強かったのかも知れません。
演劇人となり、観客と心通わす幸せを味わい、
最後の10年間は念願の創作ミュージカルを
自分の作曲で4作品手掛けることが出来ました。
高校の文化祭の体験に次ぐ、幸せな時間でした。
しかし、仕事量は右肩下がりに減り、一生の仕事
として続けていくことは出来ないと悟る日が
来ました。私は鬱状態になり、出張先のホテルで
トイレ以外はベッドから出られなくなりました。
「死んだら楽になれるかな…」そんな弱気が頭を
よぎった時、昔の演劇仲間が「介護なら感動する
ほど仕事があるよ!」って教えてくれました。
私はすぐにヘルパーの資格を取り、
3年後に介護福祉士、5年後にケアマネの資格を
取ると決めました。そして、その通りになりました。
今は手話通訳者を目指して頑張っています。
介護で出会った方々と共にミュージックビデオを
創作し、YouTubeにアップするようになりました。
自分のブログも始めました。どれもこれも、
年寄りの私にとってハードルの高いことでしたが、
若い友人に助けられ、クリアして来られました。
次々に目の前にハードルを置いて、
それを乗り越えて行くことで、私は鬱の恐怖から
逃れようとしているのかも知れません。それでも
正直言って、山を登っているような充実感は、
今の私にはありません。
でも私は、必ず山を登り始めます。
70歳過ぎたら、始めます。それまでは、
目の前のハードルを乗り越えることに
集中しようと思います。
とりあえず、今、そう決めました。
Because, that’s my life !
名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新
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