2019年3月10日日曜日

今日は何の日?

3月11日は何の日と聞かれて東日本大震災と
答える人は多いでしょうが、3月10日と聞いて
東京大空襲を即連想する人が、どれだけいるで
しょうね。私は両親が当時東京の下町に住んで
いて、散々その話を聞かされて育ったので即連想
しますが、両親、あるいは祖父母さえ戦後生まれ
となれば、どんどん風化して行くでしょうね。
東京以外の方々にとっては、沖縄・広島・長崎の
ように毎年記念行事がニュースになる訳では
ないので、思い浮かばないかも知れませんね。

東京は1944年11月24日以降106回の空襲を
受けましたが、特に大きな空襲が5回あり、
中でも死者数が10万人以上の3月10日の空襲
は東京大空襲と呼ばれています。この空襲だけで
罹災者は100万人を超えたと言われ、その中の
2人が私の両親だった訳です。広島の原爆投下に
よる死者数が約14万人、東日本大震災の死者・
不明者が2万人弱と言われていますから、
東京大空襲の悲惨さが解りますよね。

私の両親は当時尋常小学校6年生。空襲のために
卒業式は行われず、卒業証書さえ貰えなかった
世代です。父は秋葉原駅近くの佐久間町に両親と
2人の兄、1人の姉とともに住んでいました。
祖父はタクシー業を営んでいたので、空襲の夜
は車に布団・味噌・醤油などの家財道具を
ぎっしり詰め込んで、子ども達4人は車の外側に
掴まって、板橋の知人宅まで逃げたそうです。
その知人は医師で、かねてより「アメリカと
戦争なんかして勝てる訳がない。」と言って
いたそうです。また祖父は「敵国の音楽」と
言われていたジャズが大好きで、大音量で聴く
ので祖母がヒヤヒヤしていたとのこと。そんな
影響もあってか、戦後は男兄弟全員がジャズマン
になってしまいました。そんな一家は北海道に
疎開し、戦後東京に戻ってみると元居た場所には
他人が家を建てて住んでたんだそうです。でも
権利書も何もかもが焼けてしまっているので、
当時の東京は居座った者勝ちだったそうです。
おまけに新円切替で財産もなくなり、晩年の
祖父母は苦労したようです。

母は銭形平次でお馴染みの神田明神下に住み、
1人っ子で可愛がられていたそうです。母が
通っていた小学校は当時としては珍しく鉄筋
校舎だったので、多くの人が避難したそうです。
校内は教室も廊下も人でごった返してたので、
祖父がトイレに行こうと言い出し、トイレに
布団を敷いて一家3人で座っていたら、祖母が
こんな臭いところは嫌だから3階に行こうと
言い出したそうです。3階は最上階なので、
真っ先に爆弾の被害にあうことを恐れ、あまり
人が居なかったからです。「神様にお祈りしま
しょう。」と祖母が言い、皆で祈ったそうです。
翌朝、学校のドアを開けると、逃げ遅れた人々が
黒焦げになって大勢死んでいたそうです。熱くて
川に飛び込んだ人も死んで行ったそうです。

米軍はサイパンからB29が飛んで来て、無数の
焼夷弾を落としました。日本は木造建築なので
焼いてしまおうという訳です。夜空に焼夷弾が
ばら撒かれるのを下で見ていると、チラチラと
花火のようで綺麗だったんですって。で、自分
の方に向かって落ちて来るかなと思ってると、
風に乗って通り過ぎて行くんですって。

戦争って嫌ですね。殺されようが、
負傷しようが、家を焼かれようが、
財産を失おうが、誰に訴えることも出来ず、
賠償もしてもらえず、苦しい時代を
生き延びたとしても、実質他国に支配され、
富を吸い上げられて行く…。戦争を決断した
稚拙さ、早期終結できなかった愚かさについて、
私達は語り継いで行かねばなりませんね。

名もなき親爺が人生を語る世にも不思議なブログ
武内利之の「ザッツ・ライフ」日曜の午前に更新

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