2016年7月10日日曜日

沖縄の想い出


 
私は平成7~14年の7年間、劇団の仕事で毎年
4回、沖縄に出張しました。私は39~46歳で、
沖縄訪問は後にも先にもその7年間だけでした。

最初の年、社長の指示通り鹿児島からフェリーに
乗ったんですが、これが25時間の長旅。実際の
距離はそう長くないんですが、途中の島々に寄り
ながら行くんです。しかも、波が荒くて船酔いす
るし、仙台~苫小牧のフェリーと比べると狭いし
汚いし料金高いし、いいとこなしでした。翌年
から空港前の駐車場に車を預け、飛行機で飛び、
現地でレンタカーをマンスリー契約しました。
駐車代、往復の飛行機代、レンタカー代を合わせ
ても、報復のフェリー代より安くあがりました。


沖縄と言えば、中高生時代のアイドル南沙織さん、
俳優時代に親しくなった沖縄出身の先輩俳優さん
など、私にとって良いイメージばかりでしたが、
それが徐々に崩れて行きました。


まずは、レンタカー屋の社員の対応が遅い遅い。
「じゃ、書類をお作りしましょうね~。」と独特の
イントネーションで言って事務室に入ったきり
出て来ない。お菓子食べて談笑してる!いきなり
沖縄タイムの洗礼を受ける訳です。イライラを
我慢して、やっとこさ車に乗りホテルへ。車道に
沿って並ぶ熱帯樹の傍らを走る現地の車は皆
の~んびり走り、まさに南国、別世界。ホテルの
フロントは後払いで、すぐにチェックイン出来た
のはいいが、頼みもしないのに従業員が荷物
持って部屋まで着いて来る…。「チップが欲し
かったのか?」と後になって思いましたよ。
物価が本土より2~3割は安いので、少しぐらい
チップ渡してあげても良かったのに、そういう
習慣がないもんだから気づかなかったんですよ。


沖縄の人を「うちなんちゅ」そうでない人を
「やまとんちゅ」と呼ぶことも初めて知りました。
ご年配の方の中には、やまとんちゅの私を見ると
急にしかめ面になり、無口になる方もいて、

被差別感を感じざるを得ませんでした。
若い方も「政府」のことを「日本」と言ったり、
海外から客人が来ると「来日」と言わず「来沖」
と言ったり、自分達は日本人ではないんだと
思いたいみたいな感じが伝わって来ました。


金城さんとか、大城さんとか、同じ名前の人が
多いので、どこの金城さんか覚えておかないと
記憶がごちゃごちゃになっちゃいます。地名も
北海道と同様、珍しいものが多く、読めません。
「東風平」「南風原」どうです、読めますか?
「こちんだ」「はえばる」って読むんですよ。


私が沖縄を担当してる頃に、普天間基地の辺野古
への移設推進派の稲嶺さんが県知事を2期8年間
され、その後、やはり推進派の仲井真さんが当選
されました。結果、平成10~22年まで3期
12年間、県民は推進派の知事を選んだ訳です。
社長が「来年から北部に振興予算がドンと落ちる
から、名護で営業して来い。」と言うので、名護
市役所へ行って教育委員会・文化振興課など、
舞台芸術の予算を計上してくれそうな部署に営業
しました。県内に国立劇場を建てる為の調査費が
ついたので、文化庁の嘱託を受けたお偉いさんが
視察に来て私が随行したり、その頃の沖縄は
金が落ちる期待感で、とても盛り上がってました。
そして沖縄に手厚い配慮をした当時の首相、橋本
龍太郎さんは大人気となりました。


信じられないかも知れませんが、7年間も通って
いながら、私は一度も沖縄の海に行ったことが
ありません。それどころか、観光地へ行くのも、
名物の食べ物を食べるのも、お客さんに随行した
時だけでした。沖縄そばも、チャンプルーも、
サーターアンダギーも、お金を出して食べたい
とは思いませんでした。ですから、後にも先にも
あの7年間だけってことになりそうです。


【お知らせ】

次回は
7月17日(日)Amに
サウンド・オブ・ミュージック Part1
7月18日(月)Amに
サウンド・オブ・ミュージック Part2
をアップします。


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