2016年3月21日月曜日

私らしく生きる

私は1956年(S31)に生まれ、
60年安保も70年安保も知らず、
1971年に高校生になりました。
既に生徒会によって制服が廃止され、
自由服で登校できる高校でした。
当時は校門の前で社会問題研究会、
通称『社研』の人達がビラを撒いて
ました。記憶にはないですが、「狭山
差別裁判」とか「森永ヒ素ミルク」
とか書いてあったんだと思います。
「君は何をやってるんだ?」
「僕は狭山。」「私は森永。」
それが彼らの自己紹介でした。

その年の体育祭は、優劣をつける
行事を強制してはならないと生徒会が
拒否して中止になりました。卒業式は
『儀式解体』と称して、日の丸・
君が代は勿論、卒業式らしいことは
一切行わず、数名の生徒が自分の主張
をする『主張の会』になりました。

2年生になった私は、生徒会が
自主的に行事を企画運営することを
目指して生徒会長に立候補することを
決意しました。すると、その噂を
聞きつけた社研の人達がやって来て
「武内、止めとけ。体制側に
取り込まれるだけだ!」と
私を説得し立候補を断念させました。

高校3年生の年に私は、10ヵ月の
歳月を費やして創作ミュージカルを
描き上げ、文化祭で発表しました。
無気力・無関心・無感動・無責任の
4無主義などと揶揄されていた時代に
胸のすくような出来事でしたが、
私にとっては長い演劇人生の
始まりを意味していました。

私の卒業式は先輩の卒業式とは
違って、一応卒業式らしい体裁は
整っていました。私以外の生徒は
全員きちんとした服装をして卒業生の
席に座ってました。私はと言うと、
いつものように穴の開いたジーパンと
着古したジャンパー姿で、ブラバンの
席にいました。自分が卒業式用にアレ
ンジした曲を自分で指揮して、自分の
高校生活の最後の営み、そして思い出
にするために…。学校側からは一切
咎められませんでしたし、今でも私は
それで良かったと満足しています。
私にとってそれが最も価値のある卒業
の仕方だったと信じられるからです。

卒業後何年かして、風の噂で
生徒会によって制服が復活させられた
と聞き、愕然としました。時代と共に
学生の質が確実に変わっていました。
私は反骨精神旺盛な旧世代と、体制に
従順な新世代の狭間にあって橋渡しの
ような世代だったのかなと思います。

ただ一つ、自信を持って言えることが
あります。私は私らしく生きました。

Because, that’s my life !

武内利之の「ザッツ・ライフ」
原則、毎週月・木の朝に更新。

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