2022年5月3日火曜日

激動の10年

 10年前のちょうど今頃、私は転職を決意しま

した。私は20年前に新劇団の立ち上げに参加し、

自分が原作を描き、プロデュースし、作詞作曲を

した高校生向けと小中学生向けのミュージカル

を公演することを生業にしていました。演劇生活

38年間の最後の10年間を、その劇団で活動し

ましたが、まさに激動の10年と言うべき年月で

した。表現者としては、創作活動ができたことが

人生の宝、絶頂期と言っても過言ではないほど

楽しかったです。高校生向けを2作品、小中学

生向けを4作品発表し、評判は上々で、正確な

数は解りませんが、おそらく10年間で1000回

観客数50万人ほどの方々に観て頂けたのでは

ないかと思います。けれど、プロデューサーとし

ては、自分だけでなく劇団員の命運をも背負って

いるので、逃げ出したくなるほど精神的に追い込

まれました。そして10年前の4月、出張先で鬱

になりかけました。近い将来、その仕事で食べ

て行くことが出来なくなると悟ったからです。

昼の営業はかろうじて出来たものの、ホテルに

帰ったらトイレ以外はずっとベッドに横になり、

終いには「死んだら楽になれるかな?」などとい

う考えが頭をよぎるようになりました。未だに

桜を見ても楽しい気分になれないのは、その時の

トラウマから抜け切れないからです。4月下旬

に出張から帰り、昔の役者仲間に相談したら、

その人はアルバイトでヘルパーをしていて、

「介護なら感動するほど仕事があるよ。」って

教えてくれました。そして、10年前のちょうど

今頃、私は介護の世界に飛び込むことを決意し、

翌年からヘルパーの仕事を始めました。


それからの10年がまた激動の10年でしたよ!

57歳という年齢で訪問ヘルパーになり、身体が

ガタガタになるほど働きました。1年後にある

会社が正社員として雇って下さり、その2年後に

介護福祉士の試験に合格し、そのまた2年後に

ケアマネの試験に合格し、今はケアマネとしての

キャリアを4年積んだところです。劇団時代のよ

うな逃げ出したいような強いプレッシャーはな

かったですが、なんせ57歳で未経験の世界で

1からのスタートですからね。しかも脳も身体も

どんどん老いて行きますから、そういう意味での

プレッシャーはありました。特に人生最後の大

勝負と位置づけ、61歳で挑んだケアマネ試験。

そこに至るまでの勉強期間、そして試験を終えた

直後の放心状態。北千住商店街を夢遊病者のよう

に彷徨い歩いてましたから。そして、結果発表

まで1ヶ月半ほどの気分の悪さったらなかった

です。翌年に制度改正を控えていて、もしその年

に合格できなかったら3年間受験資格を失う状

況だったんです。となれば次回の受験は64歳で

挑むことになり、下手をすればケアマネ断念とも

なりかねないという不安があった訳です。しかし

努力が報われ、何とか合格し、定年のない会社で

好きなだけ働けるようになりました。高校生以来

44年ぶりにクラを再開し、演奏動画に目覚め、

サックスに目覚め、現在に至っています。


そのように、二度に渡る激動の10年を経て、

今の私があります。決断と努力、そして幸運に

恵まれ、自分では全く想像しなかった自分が、

今ここにいます。そして、これからの10年が

どのようになるか、まったく想像がつきません。

生きているかどうかすら、解りません。


「永遠に生きると思って夢を見

 今日死ぬと思って生きる」

「人生にもう遅いはない」


この2つの言葉を胸に、前進あるのみです。


Because, that’s my life !


名も無き親爺が人生を語る

世にも不思議なブログ

武内利之の「ザッツ・ライフ」


0 件のコメント:

コメントを投稿